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五年目(7)

 それから俺達は弁当とチョコブラウニーを食べた。
 清水はいつも通りに食欲旺盛だった。彼女ならいつ何時でもばりばり食べるのかもしれない。隣から眺めていると幸せな気分になれる食べっぷりだった。
「お弁当、美味しいよ」
 しきりにそう言ってくれるのも本当に嬉しい。
 俺も負けじと食べた。そして誉めた。
「ブラウニーも美味いよ。すごくいい出来だ」
「そりゃそうだよ、本気で作ったもん」
 彼女は得意げに胸を張ってから、ふっと肩を竦めた。
「でもまさか、本命チョコになっちゃうとは思ってなかったな。自分でも不思議な感じ」
「バレンタインはまだ先なのにな」
「そうだよね。虫の知らせって奴だったのかな」
 呟く横顔を眺めてみる。
 彼女は、恋愛するだけの余裕を見つけたんだろうか。それとも、そんなのはまるで関係なく、ある瞬間に『落っこちて』しまったんだろうか。
「でも、播上の為に心を込めて作ったよ。それは本当」
 小首を傾げた彼女。短い髪がさらっと揺れた。
「ずっと一緒にいられるって、作っている間は疑いもせず思ってたから……こうなるとは予想もしてなかったけどね」
「言うの、遅かったか? もう少し早く言えばよかった」
 忙しい時期だからと一月のうちは避けていた。だが彼女の驚きようを思い起こせば、もう少し早い方がよかったのかなとも思う。辞表を出す前でも。
「確かに早くはないよね」
 清水はそこで吹き出した。
「残りの日数、もう二ヶ月ないんだもん。そりゃ寂しくもなるよ」
「悪かった」
「ううん。今は平気、これでおしまいじゃないって、もうわかったから」
 そう言った彼女の非常に前向きな笑顔を、俺はしみじみと眺めていた。
 やっぱり可愛いな、清水。それにすごくいい女だ。いっそこのまま連れて帰りたい。駄目だろうか。三月末で一緒に帰るのは無理か。彼女を連れていく為にはいろいろ用意がいるんだってこともわかってはいるものの――こんな可愛い子としばらく離れていなくちゃいけないとは。俺の方がむしろ寂しくなる。
 せめてこっちにいる間、少しでも彼女との思い出が作れたらいい。
「そうだ」
 不意に思いつき、俺は言った。
「ホワイトデーのお返しは何がいい?」
 こんなに素晴らしいものをいただいた以上、お返しだって用意しないわけにはいかない。内心で既に張り切っていた。母の日は忘れていたくせに、我ながら現金にも程がある。
「え、いいよ。これからしばらくは忙しいんじゃないの?」
 清水には気遣わしげに問い返されたが、そこは強く否定しておく。
「そりゃ忙しいけど、そのくらいの暇はある」
「だっていろいろあるでしょ。年度末だし、引っ越しの準備だってしなくちゃいけないんだろうし」
 尚も彼女は言い募る。社員食堂は相変わらず騒がしかったが、それでも声を潜めて続けてきた。
「私の方こそ、何か出来ることがあったら言ってね。引っ越しのお手伝いならするし、もし足が必要なら車出すから。そんなに荷物積めないけど」
 その気持ちはとてもありがたいが、俺からすれば彼女をそんなことで煩わせるのも申し訳なかった。
「引っ越しの件は大丈夫そうだ。今からもう、少しずつだけどやってるから」
 実は見積もりも済ませてある。要らない物から順番に荷造りも始めている。この分だと仕事と並行していても、来月末にはゆうに間に合うはずだ。だから清水に手伝ってもらうまでもない。
「それよりも、しばらく会えなくなるだろ? だからほら」
 俺は早口気味に反論する。
「何か、プレゼントでもしておきたいなと思ったんだ。清水が俺のことを忘れたりしないように」
「忘れないよ、失礼な」
 また清水が笑った。明るい表情だった。
「でも知らなかった、播上って結構計画的なんだね」
「まあな。料理も引っ越しも計画立ててやるものだ」
「そう言われるといかにもだよね。だから将来のこともしっかり計画してたのかな」
 言ってから、彼女はちらとはにかむ。
「その計画の中に私がいるって、やっぱり不思議な感じがする。いつから考えてたの? 今回のこと」
 その問いには正直に答えてみた。
「一昨年の七月くらいから」
「えっ?」
「……やっぱり、言うの遅かったか?」
「うん、まあ……ちょっとは、そうかも」
 もっと早くに打ち明けていたら、上手くいったんだろうか。そんなことも考えなくはなかったが、でも今更、どうでもいい。
 清水が笑ってくれているから、当面はそれだけでよかった。
 将来のことも、今のところは計画通り。順調だ。

 三月に入り、俺の退職は他の人達にも知られることとなった。
 皆の反応は一様に同じだった。そもそも家業について人に話す機会がほとんどなかった為、退職の事実とその理由とで二度驚かれる。それから大半の人が父さんの店がどこにあるかを聞いてきて、ここからなら車で片道六時間だと答えるとがっかりされてしまう。それはまあ、仕方がない。
 俺の故郷は観光都市で、温泉もあるし海もある。旅行でお越しの際には是非お立ち寄りくださいと、ついでに故郷の宣伝もしておいた。
 言いながら、あの街へ帰るんだという実感が湧いてくる。ただの帰省ではなく、故郷で暮らすことになるのは実に、九年ぶりだった。
「播上さんが辞めちゃうなんて、寂しいです」
 堀川の反応もまた、他の人達とほぼ同じだった。
「でもしょうがないですよね、ご実家を継がれるんですから……あの、頑張ってください。応援してますんで!」
 素直にそう言ってくれる堀川はいい奴だ。三月に入る頃にはもう業務もばりばりこなしていたし、奴については何の心配もなかった。出来のいい新人で本当によかったと思う。
 俺が胸を撫で下ろしていれば、
「ところで、清水さんのことはどうするんですか?」
 ふと堀川が、これまた皆と同じようなことを聞いてきた。
 退職の話が一段落すると、ほぼ全員が清水について聞きたがる。皆から見た俺達はやはりそういう間柄に映っていたらしい。結婚はするのか、連れて帰るのかと一様に尋ねられるのには閉口した。そうしたいのはやまやまだが、すぐというわけにもいかないんだから困る。
「どうって、考えてないわけじゃないよ」
「やっぱりご結婚されるんですか?」
 ストレートな問いに俺が詰まると、堀川は尚も畳み掛けてくる。
「将来的には清水さんと二人でお店をやるとか、そんな感じですか」
「ま、まあな。そういう風に考えてはいるけど……」
「ちなみにお子さんは何人ぐらい?」
「い、いや、さすがにそこまでは」
「播上さんと清水さん、どっちに似ても料理上手だから安泰ですね!」
「……だからそこまでは考えてないって」
 矢継ぎ早の質問内容には冷や汗を掻かされた。堀川のみならず、皆が皆こんな調子で話を進めようとするから困る。俺と清水が結婚するものと決めてかかっている。
 考えているのは事実だし、俺自身がものすごくそういう流れを望んでいる。だが、それがいつになるかは具体的なことはまだわからないし、はっきりした予定が言えるわけでもなかった。

 清水はと言えば、あれから特別変わった様子はなかった。
 三月に入ってからも、彼女とは会社以外で会ったことがない。社員食堂で一緒に昼休みを過ごして、あとは退勤後に電話やメールをするくらい。お互いに仕事もあるし、俺は引っ越しの準備や手続きに追われている。だから表面上は何ら変化のない関係に見えた。
 もちろん実際は、そうではない――はずだ。
「これ、ホワイトデーのお返し」
 三月十三日、俺はクッキーを作って持参していた。彼女が『お返しはお菓子がいいな』と言ったので、その要望に応えて作った。十四日は土曜日なので一日前倒ししてのホワイトデーだ。
「ありがとう! すっごく期待してた!」
 声を弾ませる清水にお返しを渡す。彼女は弁当そっちのけでクッキーの包みを開ける。中身はシンプルなロッククッキー。ナッツ入りなので食べ応えがあるから、彼女の好みに合うはずだ。
「わあ、いい匂いがする」
 一つ指先で摘んで、清水は幸せそうにしてみせた。その顔を見ただけで俺まで嬉しくなる。作って来てよかった。
 もっとも、食べてもらえた方がより嬉しい。
「匂いだけじゃなくて味もいいよ」
 俺が促せば、すかさず笑われた。
「わかってるって! いただきまーす」
 笑いながらクッキーに齧りついた彼女。かりっといい音が聞こえて、たちまち隣の表情がほころぶ。どうやらお気に召したらしい。
「さすが播上、お菓子作りもやっぱり上手だね。すっごく美味しいよ」
 誉め言葉も貰った。危うくにやけそうになったが、そこは堪えてさも当然と言ったふうに応じる。
「バレンタインにはあれだけの物を貰ったからな。手抜きのお返しじゃ格好つかない」
 二月に貰ったチョコブラウニーは、結局その日のうちに食べつくしてしまった。でもまた作ってもらうからいい。来年にでも。
「そうだね。腕はともかく、気持ちの量では私だって負けてないもん」
 ふふっと声を立てる清水。その後、少し照れたようにしてみせた。
「播上のこと、皆にしょっちゅう聞かれてるよ。辞めるってもう話したんだね」
「ああ。引き継ぎもあるから、総務の皆には言っておかないとな」
「総務どころか、社内全体に広まってるみたい」
 彼女の言葉にぎくりとする。たかが一社員の退職が、そこまで話題になっているのか。それも清水のことがあるから、だろうか。
「もしかして、清水もいろいろ突っ込まれてるのか」
 俺が問うと、すぐに苦笑いが返ってきた。
「うん。播上が辞めるから、私も辞めてついていくんじゃないかって、皆に思われてた」
「……やっぱり」
 ということは彼女も、結婚だの子供は何人だのと聞かれていたりするんだろうか。
「きっと、播上がいなくなってからもしばらく聞かれるんじゃないかな」
 清水は首を竦めた。
「私はそれでもいいけどね。播上の話を他の人としてたら、寂しさも紛れる気がするから」
 口調は明るかったが、どことなく感傷的な言葉に聞こえた。
 この会社から俺がいなくなったら、彼女はどんな風に昼休みを過ごすんだろう。俺はどんなふうに、彼女のいない日々を過ごすんだろう。
 どうあっても離れるのは寂しい。ずっと一緒にいたんだから尚更だ。
「なるべく早く、迎えに来るから」
 声を潜めて告げておく。
 クッキーを食べていた清水が何か言いたげな顔をしたから、慌てて付け足した。
「もちろん、清水の意思は最大限尊重するけどな」
「尊重してもらうほどの意思はないよ、大丈夫」
 彼女はすっきりした様子だった。
 二月のあの日から時々寂しそうなそぶりは見せても、泣きそうな顔は一度もしていない。
「私は播上と一緒にいられたら、それだけでいいんだ」
 隣に座る清水が俺を見つめて笑う。唇の両端がにゅっと上がった、力強い笑顔だった。
「いつじゃないと駄目とか、待ってられないなんてことはないから。絶対ないから。播上の好きな時、都合のいい時に呼んで。そしたらその時は飛んでいくよ」
 なんて頼もしい心意気だろう。
 にっこり笑顔で言い渡されて、正直、惚れ直した。
 これは頑張らなくてはいけない。こんなにいい女を待たせておいて、寂しいなんて腑抜けたことは言っていられない。もう絶対に頑張る。あの店を継いでやる。
「ところで、播上はいつまで勤務なの? 有給残ってるんだよね?」
「勤務は来週末で終わり。こっちには三月末までだいるけどな」
「そうなの?」
「ああ。送別会をやるからって言われてさ、俺は断りたかったんだけど、他に退職の人もいるから顔くらいは出しとこうと思って」
 年度末の忙しい時期に飲み会のスケジュールを立てるのは難しかったらしい。結局、三十一日にずれ込んでしまった。
「だから三十一日の晩に夜行で帰る。その日の昼に引っ越しの荷物を出して、大家さんに鍵を返して、夜になったら飲み会に出る」
 出来ればその前に、清水と社外でも会っておきたかったが――年度末は彼女だって多忙だ、あまり無理強いも出来ない。向こうに帰ってからだって、落ち着いたらいくらでも会いに来れる。今は昼休みを一緒に過ごせるだけでもよしとしなければ。
「じゃあ、飲み会からまっすぐ駅に行く感じなの?」
「そうなると思う。結構タイトだろ」
「本当だね」
 清水は眉を顰めて、ふとこう言ってきた。
「それなら、車で送迎しようか? 私もお見送りくらいはしたいって思ってたんだよね」
 お見送り。
 なかなか魅力的な単語だった。見送ってくれる人がいるっていうのはいいなと思う。一人で出て行くのは寂しいし、清水が見送りに来てくれるなら言うこともない。
 でも、
「四月一日は営業日だけど、大丈夫なのか? 飲み会も九時近くにはなると思うし」
「そのくらい平気だよ。任せて、運転には自信があるから」
 俺の懸念を遮って、清水はさらりと言ってのける。
「私がしたいと思って言ってるんだから、播上が心配することなんてないよ」
「それはありがたいけど……」
「播上がこっちにいるうちに、一回くらいは外でも会っておきたいの。ドライブデートだと思えば抵抗ないでしょ?」
 重ねて提案されてしまうと、最早断る理由もなくなってしまう。
 ドライブデート。これまた非常に魅力的な単語だった。
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