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五年目(5)

 辞表を出したのは、年が明けて迎えた一月のことだ。
 キリのいいように年度末で辞めるつもりだった。五月の連休以降も何度か実家に帰り、その件について両親にも話した。両親も特に反対しなかったので、後は俺が自分で決めた。
 直属の上司である総務課長は、俺の退職理由を聞くと残念そうな顔をした。藤田さんの時と同様に、慰留のしようがない理由だからだろう。業務の滞らないように引き継ぎをしていきますと告げれば、残念がりながらもようやく笑ってもらえた。
「播上は真面目だから、いい後継ぎになれるな。頑張れよ」
「頑張ります」
 俺も課長に笑顔を返し、それから詫びと感謝を述べた。
 何だかんだで五年間勤めていた職場だ。辞めるとなるとほんの少し寂しくもなる。それでも、一番やりたいことを生業とする。そう思えば抱いた寂しさすらもモチベーションとなり得た。
 もう引き返せない。だからこそ、一つとして妥協はしない。
 やりたいことも欲しいものも、傍にいて欲しい相手も、全て自分の力で手に入れる。

 退職の件は上司にだけ伝えていた。
 他の人にも直に打ち明けなければならないのだが、どうしても優先させたい相手がいる。決算の準備で忙しかった一月が過ぎ、俺は改めて彼女への思いと向き合うことにした。
 彼女に打ち明けるのは二月と決めていた。年が明けてすぐはどこの課も忙しいはずだし、三月に入ると年度末でまた慌しくなる。もちろん〆日や月末も然り。となれば自然と、二月上旬をターゲットに据えることとなった。

 だから堀川は、俺が辞めることをまだ知らない。
「――播上さん、休憩ですか?」
 一年目で驚くほど仕事を覚えた新人は、それでも休憩時間が一番元気だ。今もいきいきと休憩から帰ってきて、弁当片手に廊下を歩いていた俺を見つけて声を掛けてくる。
「清水さんなら秘書課にいましたよ。播上さんが来るのを待ってるみたいでした」
「そうか、わかった」
 暗に冷やかされているのがわかって、俺は照れ笑いを噛み殺す。堀川のそういう性格は相変わらずだった。俺と清水の仲をストレートに羨ましがるところもまた然り。
「今日も仲良しですね。最近のお二人はもう、見ていて眩しいです」
 笑いながら言われると反応に困る。ただ、近頃はあまり否定しないようにしていた。ごく軽く応じてみる。
「そう思うだろ?」
 俺の問い返しに堀川は目を瞠った。その後で余計ににやりとされた。
「本当に最近、いい感じですよね。羨ましいですよ」
 肩を竦めただけで、俺もそれ以上は喋らなかった。開き直ってみせようと、突っ込まれるとうろたえたくなるに違いないからだ。この歳になってもやっぱり、面と向かって冷やかされるのは照れた。
 でも実際、堀川の言う通りなんだろう。二人で共に過ごしてきた五年間で、俺と清水は人から羨ましがられるくらいの関係を築いてきたのだと自覚している。
 彼女に退職の件を打ち明けたら、次はどんなふうに変わるだろう。ここまで来れば不安はなかった。清水なら、どういう形にせよ受け止めてくれると思っていた。

 堀川と別れた後、俺は秘書課を訪ねた。
 最近では、休憩に入ったらまず彼女の様子を見に行くことにしていた。一緒に休憩に入れそうならそのまま連れ立って社員食堂へ向かう。少しでも長く一緒にいられるように。
 清水は俺のそういう行動も、ごく普通に受け止めていた。訝しがることもなければ不審がることもなかった。それどころか、今日みたいに俺を待っていたりもする。
「あ、播上。そろそろ来る頃かなーって思ってた!」
 常に人気がない秘書課の室内、清水は机に向かって書類を片づけているところだった。俺が訪ねていくと席を立ち、鞄から弁当箱を取り出して、廊下まで出てくる。
「さっき堀川くんを見かけたから、播上の休憩もそろそろかなって待ってたの」
「堀川も言ってたよ。清水が秘書課で俺を待ってるって」
「伝えてくれたんだ? 律儀だなあ、堀川くんも」
 彼女が笑う。一年目とあまり変わりのない、朗らかな笑顔。
 でも、それ以外はたくさんのことが変わった。
「じゃ、食堂に行こっか」
「ああ」
 頷く俺の、胸裏にある思いも。
 こうして食堂まで肩を並べていく時間もそうだ。
 変わりつつある。俺達の関係も、五年目の二月を迎えても、当たり前のように。

 食堂の隅の方の席に並んで、持参したお弁当を開ける。
 清水の今日の弁当箱は、黄色い小鳥の柄だった。彼女は勿体つけるような手つきで蓋を取る。すかさず俺は隣から覗き込んでやった。
「へえ、美味そう」
 いい出来に見えた。メインは酢豚のようだが、つやのある照り具合が何とも言えず上手そうだった。彼女の弁当は野菜も多い。玉ねぎやピーマンやニンジンがごろごろ入っている。見ているだけで腹が減ってくる。
「播上のだって美味しそうじゃない」
 負けず嫌いの顔をして、清水が言い返してくる。俺は胸を張って答える。
「もちろん、美味いよ」
 不味いはずがない。自分と、彼女の為に作っているんだから。
 彼女の好みを把握するべく、ここ数ヶ月は日々練習のつもりでいた。お蔭で清水の好きなおかずは概ね把握済みだ。
「いいよねえ、料理上手」
 清水が呻く横で、俺もさっさと弁当箱を開けた。今日のメニューは豚の角煮と大根の煮物、炒り卵にさやいんげん、それにポテトサラダとミニトマトだ。野菜を多めにしているのは、彼女の好みを意識してのことだった。
「清水、何食べたい?」
 尋ねれば、彼女もこちらを覗き込んでくる。そして素直に即答する。
「全部食べたい」
「了解。蓋、借りるよ」
 答えを聞くが早いか、俺は彼女の弁当箱の蓋を取り上げた。そこに自分の弁当のおかずを一つずつ乗せていく。崩さないように丁寧に並べてから、彼女に蓋を返す。いつも通りの弁当交換、これが楽しい。
「角煮、自分で煮たの?」
 そう尋ねた彼女が、俺の作った角煮を箸でつまんだ。昨日の晩に作ったものだ。脂をちゃんと落としてあるから好みに合うはずだが、味つけの方はどうだろう。
 角煮を口に運べば、たちまち清水の表情が緩む。美味しそうな顔をしている。よかった。
「ああ。昨日、休みだったから。夕飯の残りを持ってきたんだ」
 なるべく平然と答えたつもりだったが、彼女からはどう見えただろう。
 清水は角煮を食べ終えた後も、次々と味見を続けた。そして実に満足げな顔をしながら言ってきた。
「作り方教えて」
 どうやら今日も気に入ってもらえたようだ。ほっとしつつ答える。
「いいよ。後でメールで送る」
「ありがと。あと、こっちのポテトサラダも。マヨネーズだけじゃないでしょ?」
「牛乳も入れてる」
 なるほど、と彼女は唸る。向上心のかたまりみたいに見える表情。そういう彼女と弁当の話をするのは、そして料理の話をするのは楽しかった。最近では清水も随分と上達したようだったから、余計に思う。
「清水は? 今日は酢豚弁当?」
 遠慮もせずに弁当箱を覗けば、彼女も慣れた様子で答えてきた。
「ううん、これ鶏肉。食べてもいいよ」
「いただきます」
 酢豚ならぬ酢鶏か、面白そうだ。俺はためらわずに箸を伸ばして、彼女の弁当箱から鶏肉の一つをひょいと攫った。素早く口に運ぶ。
 柔らかい。こってり甘酸っぱいソースと、鶏胸肉の淡白さがよく合っていた。衣の感じから察するに、唐揚げに甘酢ソースを絡めたのかもしれない。味つけも揚げ方も文句なし。美味しかった。
「へえ」
 思わず、唸ってしまった。
「美味いな、これ。昨日の晩、鶏の唐揚げだった?」
 俺が尋ねると、清水は感心したように頷く。
「そう、よくわかったね。播上からこないだ教わったやつ、作ってみたんだ」
 聞いた話によれば、彼女のお兄さんは例によって鶏の唐揚げが大好物らしい。清水はその期待に応えようと日々唐揚げの研鑽を重ねていて、俺も彼女の努力にほんの少し力添えをしてきた。でも本当にほんの少しだ。清水自身の頑張りが今日の弁当に生きていることは間違いない。
「清水も腕を上げたよなあ」
 心からそう思い、俺は呟く。
 彼女は本当に頑張っている。一年目とは比べ物にならないほど成長したし、その成長を負けず嫌いの向上心がしっかりと支えている。実力もさることながら、俺は彼女のそういう性格が好きだった。
「毎回、播上には敵わないけどね。プロ並みだもん」
 苦笑いで応じてくる清水。プロ並み、と言われて内心どきっとする。もちろんプロではないし、それほどの実力もまだない。しかしいつかはと思っている。そのことを彼女に伝えたかった。
 それは、だが今日の話ではない。俺はひとまず首を竦めた。
「この分だといつか追い抜かれそうだ。俺もうかうかしてられないな」
 本当にそう思うし、そうなってもいいかとさえ思う。
 追い着かれたとしても、追い抜かれそうになっても、そこからお互いに全力で駆け上がっていけるような、そういう関係でありたい。負けず嫌いの彼女となら、いくらでも技術を高め合ったいけるはずだった。そして彼女となら、そういう関係こそが何より楽しいはずだった。
 だから、決めた。
 五度目の二月、第二週。その中でも業務がさほど忙しくない火曜日、つまり明日だ。
 明日、彼女に伝えようと決めていた。

 弁当を食べ終えるのは、清水の方が早かった。
 同時に食べ始めたなら大抵そうなる。彼女は食べるのが早い。もっとも、俺がのんびりしすぎなのかもしれない。何につけても。
「それじゃ、午後も仕事、頑張ろうね」
 言いながら弁当箱の蓋を閉め、清水がすっと席を立つ。
 細い手が弁当袋の口を結び、椅子を収める、つれないくらいに迅速な一連の動作。普段通りの行動も、今日に限ってはプレッシャーとなった。さっさとしないと立ち去られてしまう。急げ。
 迷う暇もなく、俺は彼女を呼び止めた。
「清水」
 声を掛けた時、既に彼女は弁当袋を手に提げていた。こちらに踵を返した直後で、再び振り向く。怪訝そうにする。
 その顔を見たら、ほんの少し躊躇したくなった。追いやったはずの自信のなさが僅かに覗いて、臆したくなった。
 でもすぐに語を継ぐ気になれた。思い出せたからだ、今日までに費やしてきた用意と決意。もう二月だ、時間はない。あえて二月まで待っていた。今日でなければいけないことと、明日でなければいけないことがある。迷っている暇もない、本当にない。
 一度息をつく。気を引き締めてから切り出した。
「明日……なんだけどな」
「明日?」
 彼女が小首を傾げる。俺は僅かに頷き、続けた。
「お前の分の弁当も作ってくるから」
 質問にも、確認にもしなかった。ただの宣言だ。有無を言わさぬ調子を心がけていた。いいかな、と問えば普通は遠慮されるだろう。なるべく遠慮されないように、彼女が快く頷けるように告げなければならない。
 それでも当然、彼女はより訝しげにした。
「何で?」
 聞き返してくるのも予想の範囲内だ。とは言えどう説明するかが難しい。今日まで散々シミュレーションを繰り返してきたことなのに、いざ声にするとなるときれいに告げられなかった。言いよどむような口調になった。
「いや……ちょっと、ご馳走してやろうかと思ってさ」
 言い訳にしてもあまり上手くない。でも彼女なら、その程度の理由でも納得してくれるだろう。そもそも俺達に、相手に何かをご馳走する時の口実はさして必要じゃなかった。
 座ったままの俺を見下ろす、清水の顔がふっと和らぐ。
「別にいいけど……いいの? 大変じゃない?」
 見込み通り、すんなり受け入れられそうだ。こっそり胸を撫で下ろす。食べ物のことで遠慮するなんて彼女らしくないから、気を遣わないでくれるとありがたい。
 俺はなるべく笑うようにして答えた。
「ちっとも。一人分作るのも、二人分作るのも、大して変わんないよ」
 上手く笑えたような気はしない。ただ、言葉に嘘はなかった。彼女の為に作るものが大変なわけがない。むしろ美味しく食べてくれるなら何だって作る。
 それで彼女は少しの間、ぱちぱちと瞬きを繰り返していた。遠慮をする気がなくなったのか、それとも別の理由からか、やがてにっこりと笑んでこう言ってくれた。
「わかった。じゃあ、ご馳走になっちゃうよ」
「ああ、任せとけ」
 安堵しつつ、大きく顎を引く。
 無事に約束は取りつけた。次は明日に備えなくてはいけない。

 社員食堂を先に出てゆく、清水の後ろ姿を見送っていた。
 意外と小さな背中と、ふわふわ揺れる短い髪。歩き格好の身軽さからして、いい女だな、と思う。そっと眺めているだけでも幸せな気持ちになれる。
 でも、隣にいてくれた方がもっと嬉しい。
 眺めているだけよりも、もっとたくさん一緒にいたい。話がしたい。俺にとって最も楽しい時、幸せな時を共有する相手が、他でもない清水だったらいい。
 決めていた。打ち明けるのは昼休み、一緒に弁当を食べる時にしようと。
 言葉だけでは足りない。この歳になったって俺は口下手だし、ことこういう問題に関しては不器用だという自覚もある。
 言葉以上に雄弁なのは、料理だと思う。俺はそのことを清水から教わった。明日、俺がするのは彼女のやり方の踏襲。彼女の為に、心を込めて弁当を作ることだ。

 その日、仕事は出来る限り早めに切り上げた。
 帰り道にあるスーパーへ立ち寄り、明日の弁当の食材を何点か買い込む。
 メニューももう決まっていた。彼女の好みに合う品目を、野菜多めで用意する予定だった。清水のことを考えながら、買い物カゴを提げて歩く。野菜や肉や、調味料に至るまでを熱心に検分し、吟味する。購入するならなるべくよいものを、そう心がけながら買い物をする。そんな自分が割と殊勝だなと思う。
 これほど彼女が好きなのに、告げるまでに五年も掛かっているなんて、どういう了見なんだろう。自分でもいささか奇妙だし、歯痒くもある。もしかしたら大きな回り道をしてしまったのかもしれない。もう少し早く伝えることだって、本当は出来ていたのかもしれない。密かに疑問を抱いて見たりもする。
 でも、最後には思う。
 回り道なんてないはずだ。俺が故郷に帰り、父さんの店を継ごうとするのに五年掛かったのも、今となっては間違いじゃないように思っている。逆に言えば、五年掛けなければそこまで思い切れなかった。大学を出て、あの会社に就職して、今日まで勤め上げたからこそ、やっと辿り着けた結論だ。必死になって働いて、いろんな人と出会って、苦しい思いも辛い思いもして、だからこそやりたいことを、悔いのないようにやろうと決めた。特定の誰かじゃなく、もっと広く、大勢の人に俺の料理を食べてもらいたい。臆病さや不安を押し退けて、はっきりそう望むようになれた。
 清水のこともそうだ。大学を出てすぐに家業を継いでいたら、彼女とはそもそも出会えなかった。仕事での苦しいことや辛いことも、彼女がいたから乗り越えられた。あの店を継ごうと決めたのも、まず何より清水がいたから。清水となら、一緒にやっていけると思ったから。そして彼女に告白しようと思ったのは、故郷に帰る用意が出来たからだ。
 今日までの五年は、何もかもが必要な事柄だった。
 回り道なんてない。今は、そう思う。

 買い物を終えて、スーパーを出ようとした時だ。
 ふと、出入り口近くの催事コーナーに目が留まった。製菓用のチョコレートに可愛すぎるキャラクターもの、定番のウイスキーボンボンに変り種のお菓子類――ああそうか、二月だもんな。どうりでチョコレートが山と陳列されているはずだ。
 もうじきバレンタインデーなんだなと、他人事のように考える。
 実際、俺にとっての二月十四日はほぼ毎年、他人事に等しかった。女子社員一同がお金を出資し合って購入する大きな缶のチョコレート、あれを一粒二粒貰うのがせいぜい、そんなバレンタインデーを四年目まで過ごしてきた。
 清水からもチョコレートを貰ったことはない。そもそも以前の口ぶりでは、彼女もバレンタインデーを他人事だと思っている様子だった。義理チョコすら配らない主義だと胸を張っていた。今年の誕生日にケーキを作ってきてくれた彼女は、それでもメシ友の為にチョコを用意しようという気にはならないだろう。俺が気持ちを伝えたら、少しは考え直してくれるだろうか。
 以前、彼女に励まされたこともあったな。あれは渋澤のいた頃だから、三年目だったか。清水に、俺も気の持ちよう次第で恋愛出来るかもよと言われて、そういうものかと疑問だった。恋愛はする、しないを決められるものではなくて、ある瞬間をきっかけに、落っこちるみたいにせざるを得なくなるものだ。俺は今でもそう思う。実際、あの年の励ましには残念ながら効果がなかった。俺が『落っこちた』のはバレンタインデーを過ぎてからのことだった。
 あれも三年目だ。清水がいい女だと、ひらめきみたいに思った瞬間。
 今だってそう感じている。清水はすごくいい女だ、他にはいないくらいに。めぐり会える確率が、それこそ奇跡的な数字になりそうなくらいに。回り道とも思える確率を潜り抜けて、俺はようやく今日に辿り着いた。明日には無事辿り着けるだろうか。どんなわずかな確率だって引き当ててやろうと思う。
 バレンタインコーナーに並ぶチョコレートを横目に、俺はいそいそと帰途に着く。二月十四日なんてどうでもいい、どうせまだ先の話だ。それよりも重要なのはすぐ目の前に来ている、明日のことだ。

 帰宅後、まずは清水にメールを送った。
 角煮とポテトサラダの作り方を、いつものようにメールで送信する。この習慣ももう五年目になる。当たり前のように色気のない文面ばかりを交換し続けている。
 これもいつかは変わるだろうか。
 彼女からの返信には少し間があった。今日は彼女の方が遅い帰りだったらしい。
『レシピ、送ってくれてありがとう。早速今夜はポテトサラダにするよ。明日のお弁当も楽しみにしてるね!』
 清水らしい、普段通りのお礼のメッセージ。彼女の声で再生出来て、なぜか笑みが込み上げてくる。可愛いなと思うし、好きだなとも思う。それに、やっぱりいい女だよな、とも思ってしまう。
 口下手なくせに、不器用なくせに、俺は明日が楽しみで堪らなかった。
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