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四年目(1)

「播上くんって、わかりやすいよね」
 ぽつりと、藤田さんがそう言った。
 やぶからぼうの一言に俺は戸惑う。一体、何について『わかりやすい』と言いたいのかわからなかった。
 それに加えて、どうしてここに藤田さんがいるのかもわからなかった。
 埃っぽく蒸し暑い、好き好んで来たがる奴もいないであろう備品倉庫。発注の為の在庫確認をしていた俺は、溜息をつき、九年目の先輩に面を向ける。
 倉庫の戸口に立った藤田さんは、財布だけを手にしていた。
「休憩ですか?」
「まあね。播上くんもそろそろでしょ?」
「これが済んだら入ります」
 答えた途端、藤田さんが倉庫の戸を閉めた。出て行くのかと思いきや、わざわざ中に入ってきた。戸を背にして仁王立ちしているから、しょうがなく問いを重ねてみる。
「何か用ですか、俺に」
「別に」
 用がないなら何しに来たんだ。
「休憩時間もったいないですよ、早く行った方がいいんじゃないですか」
 声を掛けてから、俺は備品の棚に目を戻す。
 明かり取りの窓から射し込む真昼の光が、スチール棚の枠を鋭く照らしている。空気中に浮かぶ埃まできらきらと光る。
「播上くんだってそうじゃない」
 藤田さんがどこか不満げな、つっけんどんな口調で言った。
「早く休憩入らなきゃと思って、急いでるんじゃないの? 清水さんが来る頃だから」
 それで俺もようやく『播上くんって、わかりやすいよね』の意味を把握した。
「変だと思ってたんだよね。最近急に仕事をてきぱきやるようになったでしょ?」
 例の嗜虐的な物言いが、倉庫の中に重く沈んでいく。
「三年目まではまるで使い物にならなかった播上くんが、四年目になったら急に出来る子になったんだもん。おかしいって思うじゃない。ずっと気になってたの」
 言葉の合間に、作ったような笑い声を立てた。
「そしたらあのわかりやすい態度でしょ? 清水さんの前では妙に機嫌よくて、事あるごとにでれでれしてて。単純過ぎて馬鹿みたいだと思って」
 仕事が出来るようになったならいいじゃないかと俺は思う。そこにどんな理由やきっかけがあったとしても、仕事をきちんとこなしているなら文句を言われる筋合いもない。
 もっとも四年目を迎えた今でも、この先輩に対してはなかなか反論しにくい状況が続いていた。俺が何年キャリアを積もうと、仕事が出来るようになろうと、向こうは俺の六年先輩、ベテラン様だ。その力関係はいかんともしがたい。
 だから黙って在庫の確認を続けた。
「ちょっと。何とか言ったらどうなの」
 後輩に無視を決め込まれたのが腹立たしいのか、藤田さんが声を荒げた。
 それで不承不承面を上げ、戸の前に立つ先輩の姿を見やる。美人なのにきつめの面差しは、目が合うと挑戦的に笑んだ。俺の反論を待ち望んでいる顔にも見えた。
「自分でも思いますよ。単純だと」
 発言に同意したにもかかわらず、藤田さんはにわかに鼻白んだようだ。睨まれた。
「しかも生意気さまでアップしたってわけ?」
「生意気って……じゃあどう言えばよかったんですか」
「播上くんのそういうところが嫌いなの。清水さんを悪く言われたら切れるくせに」
 俺の嫌がることをしたいだけなのか、それとも他の理由からか。近頃の藤田さんは清水のことでよく突っかかってくるようになった。渋澤がいなくなってからずっとそうだ。
「話があるなら手短にお願いします」
 生意気といわれても仕方のない態度で、俺は先輩へと告げた。どちらにしても今の状況は業務の邪魔だ。道理はこっちにある。
 藤田さんもこの言い合いの不利さには気づいているのだろう。ふんと鼻を鳴らした後で、本題らしいことを切り出してきた。
「私、前に聞いたよね? 清水さんを狙ってるんじゃないのって」
「……ありましたね、そんなことも」

 一昨年の夏、ちょうど今くらいの時期だった。
 そして舞台となったのも、ちょうどこの備品倉庫だった。
 藤田さんは俺と清水の関係を疑い、俺の下心を疑い、清水の品性を疑った。俺はそんな藤田さんに腕力で反論し――と言っても手首を掴んだだけの話だったが――、藤田さんは一応清水に対して謝罪した。それでもあの一件は俺と清水の関係にも影を落とし、未だに尾を引いている。

「あの時、播上くんは清水さんのこと、友達だってはっきり言ったでしょ? 男女間の友情は成立するんだって」
 言った。言い訳のしようもないくらいにはっきりと答えていた。もちろん今も、取り繕う気はなかった。
「言いました」
「じゃあ今は? 今も同じように言える? 言えないでしょう」
 問い詰めてくる人に、勝ち誇った表情が浮かんでいた。
「答えてよ。あの時の私の言葉、間違っちゃいなかったでしょう?」
 俺は藤田さんの視線を受け止め、胸裏ではこっそり溜息をつく。
 そこまで言うからには、本当に『わかりやすい』んだろう。俺の清水に対する態度。俺が清水をどう思っているか、四年目からはがらりと変わってしまった接し方を、藤田さんも気づいていたということだろう。
 そして恐らくは、俺に頭を下げさせたいようだ。一昨年の発言を取り消させ、後輩の分際で働いた狼藉を謝らせ、当初から清水を狙ってました、先輩のおっしゃる通り男は総じて狼なんです、あわよくばなんて本当はずっと思ってましたと溜飲の下がることを言わせたいに決まっている。
 でも、言うわけにはいかない。事実ではないからだ。
「藤田さんの言っていたこと、一部は間違ってないと思います」
 柳眉を逆立てた先輩が、すぐさま噛みついてくる。
「一部ってどういう意味?」
「男女間の友情はあると、俺は今でも思ってます。友情を長く続けてきたことで、相手のいいところを色眼鏡を通さずに捉えられるんじゃないかって」
 答えてから場違いに照れた。相手は清水じゃなくて藤田さんなのに、照れてどうするんだと自分でも思う。
「それに、清水はいい子です。絶対に藤田さんの言ったような人間じゃありません」
 その確信だけは今でもある。むしろ、一昨年の頃よりも一層深まったように思う。本当はいい子じゃなくて『いい女』なんですと言いたいくらいだったが、藤田さんの前ではさすがに口に出来なかった。
「でも、今の俺は清水のことが好きです。ご存知みたいですから言っておきます。自分の態度がわかりやすいのも薄々感じてました」
 本人はまだ告げられていない言葉も、彼女の名誉を守る為ならきっぱり言えた。
「だからそのことだけは謝ります、すみません。藤田さんの言っていたことも、一部分は確かにその通りでした」
 清水が可愛い子だから、いい女だから、友情だけを維持し続けることは出来なかった。あの時言われたことのうち、合っていたのはそれだけだ。
「ああそう」
 藤田さんが息をつく。離れた位置からでも焼けつくような熱を感じる吐息だった。
「播上くんにとって、清水さんはまだ『何にも悪いことはしない天使さん』なわけね」
 それからすぐに、苦虫を噛み潰したような顔になる。
「そして播上くんは、しっかり色ボケするタイプってこと、よくわかった」
 言われて俺は面食らった。
 ただ、それも間違ってはいないのかもしれない。何もかもがたった一つ、たった一人に起因する変化だった。昼休みの休憩を確保する為に仕事をより頑張るようになったのも、六歳年上の先輩に、まだやんわりとながらも反論出来るようになったのも、自分自身の気持ちを把握していられるようになったのも。
「このこと、清水には言わないでくださいね」
 藤田さんなら言うはずないだろうなと思いつつ、俺は念を押しておく。
 こっそり確信もしていた。藤田さんなら言わない。なぜなら、自分の目の前で社内恋愛が成就するのを諾々と受け入れられるような人ではないからだ。
「言うわけないでしょ。キューピッド役なんてまっぴらごめんだし」
 そう吐き捨てた藤田さんは、最後に俺を睨みつけ、意味深長な一言を残していった。
「きれいごとだけ言ってる人間が、上手くいくはずなんてないんだから」
 倉庫の戸が閉まるのを見届けて、それから俺は仕事を再開した。

 早くしないと清水と一緒に休憩に入れない。今日は唐揚げを作ってくるから、是非味を見て欲しいのだと言われていた。そんなふうに言われると張り切りたくもなる。
 藤田さんなんて構っている暇はなかった。あの人に何を言われようと俺の気持ちは変わらない。変えようがない。
 今までの三年間を下敷きに、ようやく、幸せな片想いをしていた。

 備品の発注を終えると、弁当片手に社員食堂へと駆け込んだ。
 たとえ食堂内がどんなに混み合っていても、清水の姿はすぐに見つけられる。俺よりも先に来ている時、彼女はいつも入り口に背を向けるように座っていて、奥の方のテーブルにいることが多い。遠くから見ると意外に小さく見える背中と、時々形を変えつつも伸ばされることのないショートの髪。捜しやすいことこの上ない。毛先がほんの少し内向きに丸まっているあの髪型は何て言うんだろう。女の子の髪型なんて詳しくないが、短めの前髪と合わせて、清水にはよく似合うと思う。
 弁当箱と弁当袋を集めるのが趣味だという話は、今年度になって初めて聞いた。そういえば模様が毎日同じじゃないなと思って、尋ねてみたら教えてくれた。ゆうに十種類は持っているらしく、その全てが動物柄らしい。いい年して子供っぽいよねなんて彼女ははにかんでいたけど、俺はそういうのもいいと思う。
 今日の弁当袋は黒い子猫の柄だった。それが目視出来る距離にまで来ると、何だか妙に緊張してくる。どう声を掛けようか今更のように考え出して、そして結局考えても意味がなくなる。

 椅子を引こうと隣に立った途端、清水が先に声を上げるからだ。
「あ、播上。お疲れ!」
 見慣れているはずの笑顔も、今は向けられるだけで頭の中が真っ白になる。
「遅くなってごめん」
 どうにかそれだけを口にして、椅子を引き、腰を下ろす。清水もいそいそと弁当袋を開き始める。
「ううん。どうしても播上に教わりたいことがあったから、一緒に休憩入れてよかった」
 そんなことを実にさらりと言ってくるものだから、他意はない、額面通りの言葉だとしてもどぎまぎしてしまう。
 盗み見た視界の隅、清水の手が黒猫柄の弁当箱を引っ張り出す。きれいな手をしているなといつも思っている。指の長さもそうだが、爪が特にきれいだ。短く切り揃えてある爪は桜貝みたいにつややかで、女の子の手だ。
 蓋を開ける直前はいつも一呼吸だけためらい、俺の方を窺ってくる。そして目が合うと、ちょっと恥ずかしそうにする。
「早く、胸を張って見せられるお弁当が作れるようになりたいな」
 清水の今日の弁当は、予告通りの鶏の唐揚げだ。
 ただし衣が若干黒ずんでいて、焦げてしまった色をしている。本人もそれはわかっているらしく、蓋の上に乗せてこちらへ差し出してくる時、困ったような顔をしていた。
「播上から教えてもらったレシピで作ったんだけどね、なかなか火が通らなくって。中の赤みが消えるまでと思って揚げてたら、衣が焦げちゃったんだ」
 そう説明する彼女の視線が真っ直ぐで、うろたえたくなる自分がいる。
 藤田さんに対してはあんなにはっきり言ってしまったくせに、いざ本人を目の前にすると思うような態度が取れなくなる。ただのメシ友だった頃はどんなふうに接していたんだろう、それすら今となっては思い出せない。
 清水は何も変わってない。こちらを見る視線も俺に対する態度も、負けず嫌いらしくお弁当作りを日々継続しているところも何ら変化がない。なのに、俺だけが変わってしまった。彼女を見る目、彼女に対する態度、弁当を作ってくることの意味。
 俺が弁当の蓋を取ると、清水は素直な声を上げた。
「わ、美味しそう! やっぱり全然違うなあ……」
 彼女が是非にと言ったので、今日は俺も唐揚げを作ってきた。早速弁当の蓋に乗せ、互いの唐揚げを交換する。すぐに俺は箸を伸ばし、清水お手製の唐揚げの味を見る。
 外観からの予想通り、衣はがりがりと硬めだった。加えて鶏肉も硬めに仕上がっていたが、これも冷めているせいではないようだ。どうも揚げ過ぎではないかと思われた。味自体は醤油としょうがの風味がちゃんと染み込んでいるのが余計にもったいない。刻みネギもアクセントとして利いていて、いい感じだ。あとは、揚げ方をもう少し改良出来れば。
「どう?」
 清水に尋ねられ、正直に答える。
「やっぱり、揚げ方がまずいんじゃないかと思うな。鶏の唐揚げの場合は、揚げ油を加熱した後で一旦下げるのが重要なんだ」
「温度を下げるの?」
 彼女は怪訝そうに瞬きをする。
 睫毛の長さに気を取られ、答えるのに一瞬間が空いてしまう。
 慌てて語を継ぐ。
「そうだ。具体的には、肉を鍋いっぱいに投入して、多めに揚げ始めること」
「でも衣がべたべたにならない? 天ぷらはちょっとずつ揚げるのが基本って言うよね?」
「鶏の唐揚げはじっくり時間を掛けて揚げる方がいい。実際やってみるとわかる」
 俺の話に、清水は真剣な面持ちで聞き入っている。
「あとは、時間に余裕があるならだけど、一旦油から引き上げて肉を休ませるのもいい」
「どういうこと?」
「中まで火を通すのに、肉表面の余熱を利用するんだ。十分くらい休ませてから揚げ直すと、外側が焦げないうちに中まで火が通る」
「ふうん」
 目を丸くした彼女が、唸った後で問い返してきた。
「それも何か、衣がべたべたしそうな気がするけど……播上の唐揚げはちゃんと揚がってるよね」
 分けてあげた俺の唐揚げはきつね色をキープしている。俺はからっと揚げるのが好きだが、うちの母さんはしっとりした皮の方が好きだと言って聞かなかった。唐揚げの作り方はその母さん直伝だ。基本の味だけを受け継いでいた。
 そうして今、俺は両親から習ってきたことを清水に教えている。
「じゃあ、試しにいただきます」
 清水が両手を合わせ、それからきつね色の唐揚げに齧りついた。さっくりいい音がして、彼女の表情がゆっくりと綻ぶ。美味しそうな顔をしている。
「うん、美味しい」
 俺の好きな子が俺の作った料理を食べている。そして美味しいと言ってくれている。果たして、これ以上の幸せがこの世にあるだろうか。
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