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三年目(4)

 藤田さんの叱咤のお蔭で、午後は仕事に打ち込むことが出来た。
 ただひたすらに黙々と働いた。渋澤のことも、藤田さんの言葉も、実家のことも考えないようにして、仕事だけをこなした。渋澤や藤田さんや他の人に話しかけられても、なるべく当たり障りのない受け答えをした。渋澤が何か愉快な冗談を飛ばしてきて、それに笑った記憶がある。藤田さんがいつもの嫌味をぶつけてきて、それに頭を下げた記憶もある。麻痺してしまった感覚で、他人との接触も全てやり過ごせた。
 仕事については自分のやるべきことをやったつもりでいたし、どうしても溜まっていく年度末の業務には、自発的な残業で対応した。空腹を抱えたまま午後九時過ぎまで一人で残って大方を片づけた。総務課のオフィスに施錠をして、それから一人で電車に乗り、暗い部屋までの道を辿った。
 アパートの部屋に帰り着いた頃には、既に十時を過ぎていた。玄関で靴を脱ぎ、居間の明かりを点け、鞄を床に下ろした後、ようやく疲労を自覚した。
 どっと疲れが押し寄せてきた。
 限界だった。

 冷蔵庫へ駆け寄る。
 今日の夕飯にしようと用意していた食材には見向きもせず、チルドルームに入れていた缶ビールを取り出す。晩酌なんて金の掛かる趣味はなく、眠れない夜に備えて数本買っておいたものだった。それこそ、今夜みたいな場合の為に。
 プルトップを引き明け、中身を煽る。
 自棄気味に傾けたせいか気管にまで流れ込んで、少しの間無様にむせてしまった。口元からシャツの胸元までがビールで濡れ、とりあえず手の甲で唇だけを拭う。他は面倒だから放っておいた。今は何もかも面倒だった。
 空きっ腹にビールはひりひりと染みた。胃が焼けるようだった。それでも中身を全部空けて、空き缶はテーブルの上に放り出す。起きているのも嫌になり、やがて床に寝転んだ。春先とは言え、三月の夜はまだ肌寒い。ビールを煽った直後では尚のことそうだ。頬だけが気味悪く火照っていた。
 安っぽい傘を被った室内灯を見上げて、しばらく非生産的な瞬きと呼吸を繰り返す。汚れたシャツを着替えもせず、腹を空かせたままで、考えるのは同じことの繰り返しばかり。何をしたって締まらない、俺はきっと世界で一番無価値な人間だ。
 本当は、価値のある人間になりたかった。
 本当は、渋澤を素直に、純粋に祝ってやりたかった。
 本当は、あの店を継ぎたかった。昔は確かにそう思っていた。
 わかっている。俺には渋澤を羨んだり妬んだりする資格すらない。だから藤田さんの言う通り殊勝であるべきなのだと思う。言い方こそ嗜虐的だがあの人の言うことは何ら間違っちゃいない。悪いのは俺自身で、他の誰のせいにも出来ない。
 そのくらいわかっているのに、一向に、ちっとも飲み込めなかった。

 何気なく首を動かし、蛍光灯から天井を辿って壁を見る。
 その下、床の上に放り出したままの通勤鞄を目に止める。サイドポケットから飛び出した携帯が、小さなランプを明滅させていた。
 しばらく、それを見つめていた。ランプの明滅はやがて止まり、ゆっくりと光が収縮していく。そして完全に消え失せる前に、もう一度明滅し始めた。
 思い出す。勤務中は私用の携帯をマナーモードにしていた。退勤後にマナーを解除するのを忘れて、そのままにしてあった。つまり。
 飛びついた。半身を起こして腕を伸ばし、携帯電話を拾い上げる。発信者の名前を確認した時、心臓が跳ねた。
 清水だ。
 迷うより先に通話キーを押していた。そのせいで第一声が震えた。
「……も、もしもし」
『播上! よかった、電話繋がって!』
 電話越しに聞こえたのは、彼女の安堵したらしい声。
『さっきも掛けたんだけど繋がらなかったから、まだ帰ってないのかなって思って。あ、今話してて大丈夫? もう帰ってる?』
「ああ、帰ってた。帰ってたけど」
『そっか、よかったあ! 私もさっき帰ってきたとこなんだ』
「……清水、どうして」
 どうしてだろうと思った。彼女が電話を掛けてきた理由。薄々感づいているくせに不思議にも思った。
 まさか、そこまでしてくれるとは思っていなかったから。
「清水、何で、電話してくれたんだ?」
『何でって……ぶっちゃけると心配したから、だけど』
 彼女はごく軽い口調で答える。少し笑ってもいた。
『昼休みの播上、ちょっと辛そうだったし。心配って言ったらおこがましいかもしれないけど、どうしてるかなあと思って。ほら、年度末だし、仕事も忙しい時期だし』
 そんなの皆同じだ。俺だけが忙しいわけじゃない。清水が忙しいのだって知っていた。昼休みも満足に取れず、帰りだって遅いと聞いていた。今日も、もう十時を過ぎてる。そんな時に俺の心配までさせるなんて申し訳なかった。そこまでして貰えるような人間じゃない。
 とっさに口走っていた。
「それは、忙しいのは清水だって一緒だろ。帰ってきたのがさっきって、疲れてるだろうに、そんな時に俺のことなんかで気を遣わせて――」
 悪い、と謝る前に言われた。
『いくら忙しくたって、友達の辛い時も気づけなかったら人間として駄目じゃない?』
 日々を生き抜くのだけで精一杯だと言っていた清水は、
『だから播上さえよかったら、ちょっとでいいから話そうよ。私も、元気な播上の声聞いて、安心しときたいし』
 限りなく優しい声で告げてくる。
 彼女の声と言葉は、アルコールの回り始めた頭にはてきめんに効いた。
 縋りたくなった。
『……長電話になるから、こっちから掛け直す』
 そう申し出たら、笑いながら断られた。
『別にいいよ、そんなの』
「でも」
『じゃあ、この次の電話は播上から掛けて。たっぷり長電話するから!』
 清水はいい奴だった。口調はどこまでも普段通りに聞こえたし、あえて普段通りを装っているようにも聞こえた。どちらにしても気遣ってくれているのはよくわかった。
「ありがとう」
 礼は、素直に言えるうちに言っておこうと思った。素面だったら照れて、上手く告げられなくなるかもしれない。
 現に電話の向こう、清水は照れていたようだ。
『うん、まあ、お礼言われるほどじゃないんだけどね』
 そんなことはない。感謝していた。彼女が電話をくれなければ、俺はずっと一人で抱え込んでいるだけだったと思う。こんがらがった嫉妬心や叩き潰された自尊心を抱えて、何も出来ないまま部屋で寝転がるだけだったと思う。
 さっきまでは、違う思いでいた。この内心は誰にも知られたくない。特に清水には絶対知られたくなかった。だから今日の昼休みも見栄を張った。藤田さんに急所を突かれて瀕死状態だったくせに、無理矢理に笑った。それで清水にはばれずに済むと思っていた。
 それこそ、そんなことはなかった。
 一箇所、穴が開いてしまうと、後はもう崩れるばかりだ。虚勢を張るのも見栄を張るのも馬鹿馬鹿しい。彼女にどう思われてもいいから、今だけでもその優しさに縋りたかった。
 這いずるように壁際へ移動し、寄りかかる。
 それから俺は、ようやく切り出した。
「藤田さんの言うことは、間違ってないんだ」
 清水がはっと息を呑むのが聞こえる。間を置かずに反論された。
『それは違うんじゃない? あの人はちょっと言い過ぎ』
「言い過ぎではあるけど間違ったことも言ってない。俺はこの仕事に向いてないと思う」
 こちらも間髪入れず、言い添える。
「渋澤に比べたら、ちっとも向いてないんだと思う」
 清水だって知っているはずだ。出来のいい同期の評判なんていくらでも耳に入ってくるだろう。有能で、顔も性格もいい、非の打ちどころのない渋澤。実際あいつだってすごくいい奴だ。いなくなるのは寂しいって気持ちも、本当は俺の中にあるはずだった。
『そう言うけど、渋澤くんは別格だよ。三年目で本社行き決まったの、同期の中じゃ彼だけだもん』
「……それはわかってる」
 あいつは別格だ。それは十分過ぎるほどわかっている。三年間ずっと同期で、同じ総務課で働き続けてきたんだからよくわかる。
「でも、ショックだった。あいつが栄転するって聞いた時」
 室内に声が響く。
 座っているせいだろうか、白っぽい光を浴びた天井が、やけに高く見えていた。
「ものすごく嫉妬した。どうしてあいつは何もかも上手くいくんだろうって」
『嫉妬?』
 怪訝そうに問い返された。心が一瞬ためらい、だが結局は答える。
「ああ。俺は渋澤を妬んでる、あいつが別格なのも優秀なのもわかってるけど」
 蔑まれてもしょうがないくらいの浅ましい、醜い感情だった。
 清水もそう思うだろうか。不安はあっても今更、言葉は止められなかった。
「前まではもっと違う気持ちでいたんだ。渋澤はそれこそ別格で、だから俺が、自分自身と比較するのもおかしいって思ってた。あいつが有能なのも、女の子に人気があるのも、先輩から優しくされるのも、他人事だと思ったから受け止めていられた。皆は俺なんか見てないだろうから、俺は俺なりに頑張ればいいって、能天気な考えでもいられた」
 短い息継ぎの合間、ノイズだけが低く聞こえた。
「でも、違ったんだ。渋澤のことは俺にとって他人事じゃなかった。藤田さんだけじゃなくて、他の誰もが俺とあいつを比較している。上司も会社も、女の子達も、皆がそうなんだと思う。ごく当たり前のように渋澤を別格扱いにして、俺をその他大勢の、取るに足らない人間に分類している」
 そしてその分類は、実に正しいのだとも思う。
 渋澤に比べたら俺は、どうしようもないくらいに無価値な人間だ。
「だから今はものすごく悔しい。あいつに先を越されたことが」
 羨む資格も、妬む資格もないのだとわかっていても、思う。
「皆が俺を見て、渋澤と比較して、あいつの方がより優秀なんだって感じている。俺はそうやって比べられるだけで、でもいい評価を貰うことなんて一度としてなくて、渋澤とは差がどんどん開いていくばかりだ。どんなに頑張ったって、俺は『取るに足らない人間』の枠から出られない。世の中にはそういう人間の方が多いんだってわかってる。俺みたいに、何の価値もない人間の方がたくさんいて、だからこそ渋澤みたいな奴が別格としていられるんだってことも。でも――自分の価値をはっきり思い知らされたのが、悔しかった」
 比較されていた。他人事だと思っていた注目の的に、対比をする為だけに引っ張り出されていた。そうしてあいつは栄転を決め、俺は適切に、取るに足らない人間として分類される。その他大勢のうちの一人になる。評価もされないまま、だけど忘れ去られることもない。生涯比較され続けるのだと思う。別格の人間の、比較対象としてしか価値がない俺。
「俺は渋澤瑞希になりたかった。評価されるくらいの実力が欲しかった。誰かと比べられた時に、せめて、どうでもいいとは思われない人間になりたかった」
 そうじゃなければ、ここに残る意味もない。
 故郷はどうしても帰りたくない、帰れない場所だ。だから俺はここにしがみついていなくてはいけなかった。
「自分でも最低だと思う。渋澤はいい奴なのに、俺に異動の話を真っ先に教えてくれたのに、俺はあいつを羨み妬むばかりで、ちっとも祝ってやる気になれない」
 自棄気味に継いだ。清水にも、渋澤にも嫌われるだろうと思った。言ってしまえばそれだって当然だった。取るに足らない人間を、どうして好いてもらえるだろう。
 俺はそこで言葉を切り、口を結んだ。
 清水の反応を待った。何を言われるのかはまるで予測がつかなかった。三年目のメシ友は、俺の内心をどう受け止めただろう。付き合いだけは長いくせに、ちっともわからない。優しい言葉は期待していなかったが、なじられるような気もしなかった。

 永遠とも思える数秒間が過ぎた後、
『なあんだ』
 いやにあっさりとした清水の声が、吐息と共に聞こえてきた。
『播上、考え過ぎだよ。嫉妬なんてそんな、否定的にばかり捉えるものじゃないって』
 軽く続けられて、俺は困惑した。言い方を間違えて誤解されているのかと思った。
「考え過ぎって言うけど、だって、おかしいだろ?」
『何が?』
「俺は渋澤に嫉妬してるんだ。三年間ずっと同じ総務でやってきた渋澤に。あいつは俺のことを、少なくとも悪くは思ってなくて、異動のことだって一番に知らせてくれて――」
『知ってるよ。播上と渋澤くん、仲良かったよね』
 俺の反論をやんわりと遮り、清水が小さく笑った。
『私、まだ覚えてるなあ。播上と渋澤くんが焼肉食べに行って喧嘩した話』
 あったな、そんなことも。
 あの頃はまだ純粋に、渋澤のことを見ていられた。仕事の話なんて持ち込まずに飲みにも行けたし、飯だって行けた。渋澤を同期の一人としてだけ捉えていられた。それこそ清水と同じように。
『私が播上の肩を持ったら渋澤くんは拗ねちゃうし、播上は相変わらず食べ物のことでは妥協しないし。おかしかったな、あの時』
 清水はまだ、そうなのかもしれない。
 俺よりもずっと純粋に、俺や渋澤や、他の同期の連中を見ていられるのかもしれない。言い方が優しくて、かえって引け目を感じた。
「そういう相手に嫉妬するのって、異常だと思わないか?」
 すると清水はまた笑った。
『播上、忘れちゃった?』
「何をだ」
『私が播上と、仲良くなったきっかけ。入社してすぐの話』
 今度は、思い出すのに少し時間が掛かった。
 蛍光灯の明かりを眺めながら、ようやく答える。
「豚肉のごま味噌焼き」
『そうそう』
 電話の向こう、ころころと笑う声がする。場違いなはずなのに、耳にも、今の気持ちにもよく馴染んだ。
『あの時の私、播上にすごく嫉妬してた。私より料理が上手くて、当たり前みたいな顔でお弁当も作ってきてて、おまけに私よりずっと仕事が楽しそうに見えたから』
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