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一年目(2)

 次の日の昼休み、俺は予定通り弁当を持参した。
 藤田さんは無事に渋澤を捕まえ、なぜか俺も交えて社員食堂にて三人での昼食と相成った。拒めないのがルーキーの辛いところだ。
「播上くんはもうちょっと、手早く仕事が出来るようになってよね」
 藤田さんは箸の先を指差すように向けてくる。行儀が悪い。でも仰ることはもっともなので、俺は頭を下げる。
「すみません」
「消耗品の発注は本来なら一人でする業務なの。わかる? 渋澤くんは一回説明したらすぐに覚えてくれたんだけどなあ」
 藤田さんの視線がすっと流れて、俺の隣に座っていた渋澤へと留まる。
 途端に渋澤が困ったような声を立てた。
「いや、僕もまだ完璧と言うほどではありませんから」
「そんなことないったら。課長も誉めてたよ、渋澤くんは将来有望だって。私もそう思うな、頑張ってるところちゃんと見てるから」
 入社一ヶ月で既に同期との差がついている。その事実にはどうしてもへこんだ。悔しがる暇があるならその間に仕事を覚えればいい話だ。だが、実際に目の前で比較されると冷静ではいられなくなる。
「教える方も貴重な時間割いてるんだから、物覚え早い方が助かるんだよね」
 俺だけを睨みながら、総務の先輩が続ける。
「五月の時点で同期と差がついてるって、自分でもやばいと思わない?」
「……思います」
 思っている。こっちだってそこまで間抜けじゃない。
 視界の隅に、渋澤の気遣わしげな表情が映った。持ち上げられる方も持ち上げられたで肩身の狭いものらしい。端整な顔立ちが俺をうかがっているのを見て、ますます居た堪れなくなってしまう。奴は何も悪くない。そんな顔をされては逆恨みだって出来やしない。
 しかもここは社員食堂だ。人目も十分ある場所だ。一日のうちで一、二を争う楽しみの時間であるはずの昼飯時を、説教と共に過ごすというのは拷問に等しい。食べている時くらい待っていてくれたらいいのに。
「料理に使う熱意を仕事の方も使ってよね」
 俺の弁当を見下ろして、藤田さんが止めを刺してくる。言われていることは全て事実だ。事実だが、そういう叱咤でやる気を上げられるほど俺も出来た人間じゃない。渋澤とのあからさまな態度の差に、向上心が潰れてしまいそうだった。
 それで俺が項垂れると、話題は藤田さんの本命、渋澤へと移ったようだ。うきうきと弾む声が聞こえてきた。
「ところで、渋澤くんは料理とかしないの?」
「僕ですか? いえ、播上ほどにはしませんけど……」
「ちょっとはするってこと? ふうん、一人暮らしなんだっけ?」
「そうです。作ると言っても、焼きそばとかそんなものばかりですよ」
 謙遜ではないらしく、渋澤が照れたように笑った。
 すると藤田さんは、ふふっと可愛らしい笑い声を上げてみせる。
「へえ、そうなんだあ。男の人って感じ!」
 それなら俺は男じゃないってことなんだろうか。
 あ、藤田さんから見ればそうなのか。納得した。
「渋澤くんの手料理、食べてみたいなあ」
「藤田さんにお見せ出来る代物じゃないですよ。播上と比べると酷いものです」
「完璧に出来るより、少しくらい隙がある方が可愛くていいよ。よかったら今度うちに遊びに来ない? 一緒に料理しようよ」
 藤田さんの誘いに、渋澤は一瞬言葉に詰まった。身の危険を感じたようだ。
 それから遠慮がちに口を開く。
「その、彼女がいるので、誤解させるようなことはしたくないんですよ。すみません」
 普通ならここで身を引くものだろう。だがそこは社会人六年目の藤田さんだ。鮮やかに切り返した。
「会社の先輩と手料理ご馳走し合うくらい、どうってことないでしょ?」
「どうってことないというほどでは――」
「彼女に聞かれたら、先輩と親睦を図っただけだって言えばいいじゃない」
 藤田さんみたいな女性は好きになれない。でも、彼女の畳み掛け方はさすがだなと思う。
 また渋澤が返答に窮したようで、視界の隅には救いを求めるような眼差しが見えていた。渋澤も単に仕事が出来てもてるというだけで悪い奴ではないし、同期のよしみで救いの手くらい差し伸べてやってもいい。たとえそれで俺が糾弾されることになろうとも――我ながら殊勝なことを思い、話題を逸らしてやろうと顔を上げた時だった。
 俺達のテーブルの横を、ショートカットの女性が通り過ぎていった。
 清水だ。
 今日はこちらに目もくれなかった。昨日よりは空いている社員食堂の奥の奥、無人のテーブルの椅子を引き、一人きりで座った。こちらに背を向けていた。
 一瞬だけ迷ってから、俺は自分の弁当の蓋を閉めて立ち上がる。
「播上、どこに行くんだ?」
 席を立った俺を、渋澤はぎょっとした様子で見上げた。さっきまでかわいそうだと思っていたくせに、突き放すみたいで悪い気がする。でも俺が口を挟んだって相手は六年目の藤田さんだ、敵うはずもない。
「いや、ちょっと清水に用があって」
「清水さんに?」
 渋澤の視線が動き、ついでに藤田さんも、その視線を追うように振り向いた。確認するなりトーンの低い声で呟く。
「ああ、昨日の子だっけ」
 興味のない様子でほっとした。すかさず先輩に確認を取る。
「すみません。席を外してもいいですか」
「どうぞどうぞ、ごゆっくり」
 藤田さんはひらひらと手を振ってきた。もう戻ってくるなということかもしれない。渋澤は縋るような顔をしてきたが、どうしようもないのははっきりしている。
 そのくらいならもう少し、有意義なことをしたかった。

 清水が一人きりでいるテーブルに近づき、思い切って声を掛けてみる。
「ここ、座ってもいいか?」
 話しかけた途端、清水の肩がびくりと動いた。
 振り返った顔は驚き一色だった。
「播上くん……何か用?」
 訝しそうな問いを勝手に了承と受け取り、俺は彼女から一つ椅子を置いた隣に座る。すぐ隣に座るのはさすがにためらわれた。
 俺が腰を下ろしてすぐ、清水が自分の弁当箱の蓋を開けた。中身を隠すように箱の真横に立てかける。視線を感じてか、ちらと横目で見られた。
「見ないでくれる?」
「あ、悪い」
 とっさに詫びたが、今日の清水も昨日と同じく表情が硬かった。
「で、私に何の用なの」
「昨日、俺に話しかけてきただろ。何か用でもあったんじゃないかって気になってた」
 あの時の会話は途中で打ち切られていた。藤田さんが口を挟んでこなければ、もう少し続いていたのかもしれない。短い会話の中ですら和やかだったとは言いがたいが、だからこそ気になった。
 清水は黙っている。
「昨日のことだけど」
 豆腐にかすがい、そんな言葉を連想しつつ自分で語を継ぐ。
「料理に興味があるのか、清水」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「俺に料理のことで何か聞きたかったんじゃないか? それで話しかけてきたんだろ?」
 例えば作り方を教えて欲しいと尋ねられるのもよくあることで、大学時代から女の子に声を掛けられる時は大抵料理の話だった。ほとんどレシピ本のような扱いをされるのにも慣れていた。女の子は俺から聞いた料理の作り方を渋澤みたいな男相手に試すんだ。ありがち過ぎて面白くも何ともない現実だった。
 だが、清水は言った。
「別に聞きたいことなんてない。私も料理、できるから」
 昨日と同じく棘のある口調に、場の空気が硬直した。
 どうやら俺と料理の話がしたくて声をかけてきた、ということではないらしい。
 しかし読み誤ったところまではいいが、俺の言葉はかえって清水の神経を逆撫でしてしまったようでもある。何がいけなかったのか、考えながらまた謝った。
「ごめん」
 すると清水はふんと鼻を鳴らしてみせる。
「播上くんが謝ることじゃないと思うけど」
「でも不愉快だったんだろ?」
「そりゃあ。だって毎日お弁当持ってきてるんでしょ」
「ああ」
「自信があるから出来るんじゃないの、そういうことって」
 苛立った様子の清水が、低い声を継いでいく。
「播上くんってすごいよね。先輩に誉められるくらい料理上手いんだから」
 皮肉めいた物言いは、別の意味で心に突き刺さった。藤田さんには誉められていない。決して、誉められてはいない。
 複雑な思考の傍らを清水の言葉がかすめていく。
「それに仕事だって楽しいんでしょ」
「俺が? 楽しいって……何で?」
 そんなこと、言ったことがあっただろうか。少なくとも清水にはない。なぜなら彼女とは昨日、入社式以来久し振りに口を利いたという状況だった。
「楽しそうに見えるから」
 清水はきゅっと表情を歪めた。
「播上くんは料理も出来るし、毎日普通にお弁当作ってきてるらしいし、おまけに同期の子がいる部署にいて、先輩は気さくそうな人で、いつも食堂では楽しそうにしてるのを見かけてたから」
 投げつけられた言葉の勢いに、眩暈がした。
 瞬間的にいろんなことを思った。清水だって料理はするんだろ、とか。清水は自分で弁当を作っているんだろうか、とか。秘書課の新人って清水一人だけだったっけ、とか。藤田さんは気さくって言うのとは違うんじゃないか、とか。楽しそうも何もさっきだって渋澤と比較されてねちねち説教食らっていたばかりだったのに、とか。いろんなことを。
 でも、一番に思ったのはもっと別のことだった。
 同期の連中が皆、新生活をすごく楽しんでいるように見えていた。
 俺はそうじゃなくて、何もかもがぱっとしなかった。なかなか覚えられない仕事も、好きになれない先輩も、有能過ぎる同期も、疎ましいというほどではない。でもどこかでは息苦しさを覚えていた。
 最初から完璧に出来るはずがない。それもわかってはいるのに。
 俺はそっと後ろを確かめた。三つほど離れたテーブルで、藤田さんと渋澤はまだ会話を続けている。こちらからは渋澤の愛想のいい笑顔だけが見える。なるほど楽しそうにも映っていた。
 二人がこちらを見ていないことを確認してから、最小限の声量で清水に言った。
「楽しくはない」
 空いた椅子を一つ挟んだ向こう、清水が瞬きをする。
「嘘」
「本当だ」
「え、でも、だって。そんなふうには」
 戸惑う表情を認めた。俺は頷き、ひそひそ声で続ける。
「いろいろあるんだ」
 俺だけではないのかもしれない。他人が押し隠している『いろいろ』を見抜く余裕なんてなくて、誰もが新生活を謳歌しているように見えていたが、本当は。
 清水の態度を見た時に察した。
 彼女も、そうじゃないのかもしれない。
「そうは見えない」
 腑に落ちない顔で彼女は呟く。その表情で、予感はようやく確信に変わり始めた。
「楽しそうに見えてたけど。播上くんはいい部署に配属されたんだって、羨ましかった」
「秘書課って、大変なのか?」
 俺が聞き返すと、清水は後ろを振り返った。ちょうどさっきの俺のように。
 そして何かを確かめた後でこちらへと向き直り、声を落とす。
「業務だけじゃないんだよね、大変なのは」
「……わかる」
 わかりたくないのにわかってしまう。新人にとって大変なのは業務だけではなかった。
「でも播上くんは、すごく余裕のあるように見えるけど。そうでもないの?」
 清水はぎこちなく肩を竦めた。
「私のこと気にかける余裕だってあるでしょ?」
 余裕があるのとは違う。清水に声を掛けたのだって、はっきり言ってしまえば新人同士で傷を舐め合いたかっただけだ。自分と同じように大変そうな奴を見ると安心する。その程度の浅ましい、質の悪い思いに過ぎなかった。
 でも、余裕がないところを見せるのも癪だった。清水にもそうだし、藤田さんにだってそうだし、渋澤にもだ。説教食らって落ち込んでるとか、理不尽な扱いに腹を立てているとか、同期に水を開けられて焦っているとか、そういう内心は誰にも知られたくない。
 そう思って押し隠しているのも余裕と言っていいんだろうか。清水みたいに、押し隠せていない奴に比べれば。
 それとも、もしかするとこれが、
「セサミンの効果なのかもしれない」
 ふと気がついて俺は言い、清水がその言葉に眉を持ち上げた。
「どういうこと?」
「ごまの栄養素の一つだそうだ。ストレスに効くらしいと聞いた」
「は……」
「だから今日のおかずも豚肉のごま味噌焼きだ。昨日はささみフライをごまの衣で揚げた。俺に余裕があるように見えるなら、その効果が出ているのかもしれない」
 だとすればセサミンは偉大だ。俺はそう思い、深く感心した。
 だが清水はぽかんとして、数秒後には呆れたような表情になった。
「播上くんって、徹底してるんだね」
「そうかな」
「そうだよ。心のよりどころが料理にあるから、だから余裕あるのかな」
 清水がふうと嘆息する。
「私はそこまでじゃないもの。料理は好きでやってたけど、最近は何だか面倒でしょうがなくなってた。お弁当作りもやめちゃおうかと思ったよ、昨日みたいに、皆と一緒にご飯食べに行けないし」
 そこまで言ってから、彼女はやっと弱々しく笑った。
「こう見えても私、料理には自信あったんだよね。でも私より上手い人がいて、毎日お弁当作ってきてて、しかもその人は仕事も何だか楽しそうにしてるから何だか羨ましくて、僻みたくてしょうがなくなったの。馬鹿みたいだけど」
 買い被りにも程がある。でも俺も、他の誰かのことを買い被っているのかもしれない。
 俺は清水の弁当箱に目をやった。蓋で隠されたままで中身は見えない。
「見せられない」
 心を読んだみたいな鋭さで彼女は言う。
「播上くんほど上手くないよ、絶対に」
「そうとは限らない。俺の料理食べたことないだろ」
「見ればわかるよ。さすがにそれとは比べられたくない」
 清水は俺の、開けっ放しだった弁当箱を見ていた。
「ね。ちょうだいって言ったら、食べさせてくれる?」
「いいよ」
 ためらう必要もなかった。頷いた。
「じゃあ、お肉。味見させて」
 彼女が頼んできたので、俺は箸を引っ繰り返して豚肉のごま味噌焼きを一切れ持ち上げた。弁当の蓋に乗せて清水に手渡す。
 彼女はそれを早速口に運んだ。
 次の瞬間、なぜか笑った。
「美味しい!」
 今までの弱い笑みとは違い、弾けるような、極上の笑顔だった。
「もう全然、敵う気しない。意地張ってるの馬鹿みたいに思えてきた」
 意地なんて張ってたのか。驚く俺に、彼女はおずおずと尋ねてくる。
「作り方教えてって言ったら、教えてくれる?」
「いいよ」
 もちろん、大歓迎だ。
 しかしどう教えるかが問題だった。昼休みはそろそろ残り少なくなってきたし、レシピを逐一書いていくほどの時間はない。かと言って口頭で伝えるからメモれと言うのも不親切だろう。
「後で、紙に書いて渡す」
 俺の言葉に、清水は小首を傾げた。
「私はいいけど、播上くんはそんな暇ある?」
「明日でもよければ、家で書いてくるから」
「そこまではしなくていいよ。悪いじゃない」
「別に手間でもない」
 かぶりを振ってみたものの、彼女は俺の提案を潔しとしなかった。胸ポケットから手帳を取り出し、一枚を切り取ってそこに何か書き記した。さっき渡した弁当箱の蓋と共に、俺へと差し出してくる。
 受け取って文面を読むと、記されていたのはメールアドレスだった。
「そこにメールしてくれる?」
 清水は笑っている。入社式の頃の笑顔をようやく取り戻していたようだ。
「それとよかったら、今度愚痴でも聞いてよ。同期のよしみってやつで」
 とびきり明るい笑顔を眺めて、これもセサミン効果なのかとぼんやり思う。だとしたら実に偉大な食材だ。
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