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二月十四日の私

「――だから、私、退職しようと思うんです」
 私が決意を打ち明けた時、映さんは黙って話を聞いてくれていた。
 少しは驚いていたようだったけど、誠実な人らしく、話に最後まで耳を傾けてくれた。
 以前から考えていたことだったし、映さんにだって今までもそれとなく話してみたこともある。ただ彼は私に決定権を委ねてくれた。ゆきのさんが決めたその時でいいですよ、と言ってもらっていたから、私もようやく心を決めた。
 辞表を出したのは年が明けてからすぐだった。でもその前から上司や同僚には話しておいた。どうせなら誰にも迷惑をかけないように辞めたかった。
 立つ鳥跡を濁さずって、いい言葉だ。

 辞表を出した年の二月十四日は、私にとって、この会社で迎える最後のバレンタインデーだった。
 毎年、バレンタインには職場用のお菓子を購入しておいている。秘書課の上司にもそうだけど、映さんのいる営業課にもずっとお菓子を贈り続けてきた。それは夫婦ともどもお世話になっているからという理由からで、どちらかと言えばお歳暮に近いお菓子だった。
 一昨年と去年は営業課にも女の子の課員さんがいたから、私はその子とお金を出し合って一緒にお菓子を購入していた。
 だけど今年度はその子もいない。大変おめでたいことに寿退社をされたからだ。
 だから今年のバレンタインデー用お菓子は、私が一人で営業課まで持っていく手はずとなっていた。

 定時を少し過ぎた辺りで上がった私は、その足で営業課へと向かった。
 お菓子の入った紙袋を提げて――今年はおせんべいの詰め合わせにしてみた。営業の皆さんは外部からチョコレートを貰う機会も多いと聞いていたから、毎年甘くないものを選んでいる。
「……ふう」
 仕事の後だからか、階段を上がっていると自然に溜息が出た。
 おせんべい入りの缶は思っていたより重たくて、三階にある営業課まで持っていくのは少々骨が折れる。ちょっと貧血気味なのもあり、自然と呼吸が弾んでしまう。
 実を言えばつい最近まで、あまり体調がよくなかった。仕事を休むほどではなかったし、退職を控えている人間が欠勤するのもどうかと思ったから何とか乗り切ったものの、何日間か満足に食事の支度もできない日があったのは心苦しかった。映さんはそういう時、私の代わりにご飯を作ってくれたけど、その心遣いが嬉しくも、本当に申し訳なくもあった。
 今月に入ってようやく復調してきたものの、身体が重い感じがするのはしょうがない。ようやく三階まで階段を上がりきった後、私はまた深く息をついた。
 それから営業課の方へ目を向けると、ちょうど見慣れた姿がそのドアを開けようとしたところだった。向こうも私に気づいたらしく、わざわざ足を止めて笑顔を向けてくれた。
「お、霧島夫人。お疲れ様、もう上がりか?」
「……石田主任、お疲れ様です」
 石田さんが頭を下げてくれたので、私もお辞儀を返す。それから持ってきた紙袋を掲げる。
「今上がったところなんですけど、バレンタインデーのお菓子。持ってきました」
「ありがとうございます。悪いな、毎年」
 こちらへ駆け寄ってきた石田さんが、私から紙袋を受け取る。早速、中をちらっと覗いてから表情を綻ばせる。
「ありがたいよ。美人からの贈り物と来れば、うちの課の士気に関わるからな」
「そう言っていただけると、用意した側としても嬉しいです」
 私も笑おうとしたけど、やっぱり少しくたびれていた。それが見て取れたか、石田さんにもそこで気遣わしげにされてしまった。
「あんまり顔色よくないな。具合は? まだ本調子じゃないのか?」
「これでも大分落ち着いた方なんです。先月までよりはずっといいんですけど」
 息をつきながら私は答える。
「ならいいけど。霧島がもう、すっごく心配してたからな」
 石田さんはからかい半分、残りの半分は励ますような口調で言った。
「あんなにやきもきしてる霧島、今まで見たことなかったよ。今更医者にでもなんのかってくらい医学書読んだりしてな。何せ奥さんのこととなると、あいつは倍増しで本気出すからな」
 確かに、映さんには心配ばかりかけてしまった。今までそれほど大きな病気もしなかった私だから、今回の不調は本当に初めてのことで、食事の支度や洗濯もままならない私を彼は甲斐甲斐しく支えてくれた。
 石田さんを始めとする営業課の皆さんも随分と気にかけてくださったそうで、飲み会を欠席する映さんを温かく送り出してくれたこともあったとか。優しい人ばかりの職場だとしみじみ思う。
 もちろんそういう人間関係は、映さんの温かくて誠実な人柄あってのものなんだろうけど――なんて、私が言うと惚気になるか。
「その節はご迷惑をおかけしました。石田さんにもいろいろ気遣っていただいて」
 私の謝罪を遮るように石田さんは手をひらひらと振った。
「気にしない、気にしない。困った時はお互い様だろ」
 その後で腕時計を確かめ、
「霧島ももうそろそろ戻ってくるはずだし、中で待ってれば? ここだと冷えるだろ」
 と言ってもらったから、私は少し迷う。
「いいんですか? お仕事の邪魔になるんじゃ……」
 営業課は皆さんいい人だけど、そのご厚意にどこまで甘えていいのか、いつも迷う。石田さんが親切心から言ってくれているとわかっているから、尚のことだ。
「迷惑なわけない。むしろ奥さんの顔みたら、霧島も、そして営業課一同も士気上がりまくりだって。何だったら霧島が上がるまでずっといてくれてもいいし」
 軽口交じりの石田さんの言葉を、私も笑いつつ、明るい気分で受け止める。
 せっかくだから映さんの顔を見てから帰りたいという気持ちも、多少あった。もちろん家で待っていれば直に彼も帰ってきて、いくらでも好きなだけ顔を見られるんだけど、それはそれ。
 今日はバレンタインデーだから。
 それも、私にとってこの会社で向かえる最後の、バレンタインデーだ。
 最後くらい映さんの顔を見て、お菓子を手渡したいと思った。
「じゃあ、少しだけ。映さんが戻ってくるの、待っててもいいですか」
 私はご厚意に甘えることにした。
 すると石田さんもにっこり笑んで、
「どうぞどうぞ。椅子用意するから、座って待ってるといい」
 紙袋を持ったまま、私の為に営業課のドアを開けてくれた。

 営業課の皆さんは本当に優しくて、至れり尽くせりだった。
 椅子を用意してくれたり、膝掛けを貸してくれたり、温かいお茶を入れてくれたりと、恐縮したくなるほど親切にしていただいた。お菓子のお礼にしても過分なほどじゃないかと私は内心焦ったけど、退職の話も体調を崩していたことも皆に知られていたから、だったのかもしれない。
「霧島遅いな……奥さんが待ってんのに、何をのんびりしてんだか」
 石田さんは特に気にかけてくれていて、仕事の合間にそうやって私に声をかけてくれた。
「今日はバレンタインですから。行く先々でもてもてで、チョコをたくさん貰ってるのかも」
 私が言うと、石田さんがおかしそうに笑う。
「貰うったってどうせ営業チョコだろ。ってか全然心配しないんだな、奥さんは」
「心配? 戻りが遅いことをですか?」
「いやそうじゃなくて。霧島がチョコたくさん貰ってきて、やきもちとかないのかなーと」
「ああ。そういうのは……確かにあんまりないかも」
 言われてみれば、そういった心配はそれほどしたことがない。
 映さんが取引先からチョコをいただいてくるのは、それこそ結婚前からの恒例だったから、特に不安になるようなことじゃないと思っている。やきもちを焼くほどのことでもない。
 それに、映さんがどういう人か、私はちゃんと知っているから。私を心配させないことにかけても、あの人は誇らしいほど誠実だ。
「もしかして石田さんは、奥さんにやきもち焼かれてるんですか?」
 逆に聞き返してみたところ、去年の秋にご結婚されたばかりの石田さんは、遠い目をしながら答えた。
「うちの嫁も全っ然妬いてくれないんですよねー……結婚前からそうだった」
「そういう感じしますね。むしろチョコのお土産、すごく喜んでくれそう」
「変な心配させるのも心苦しいし、いいんだけどな。うん、全然気にしてないし」
 そんな会話を交わしているうち、営業課のドアが開いて、映さんが戻ってきた。
 コートと鞄を脇に抱えた映さんは、営業課内のどこか冷やかすような空気に眉を顰めてから、隅の方で座っていた私に気づいたようだ。びっくりした顔で駆け寄ってきた。
「ゆきのさん! まだ帰ってなかったんですか!」
「お前を待ってたに決まってんだろ。バレンタインなんだから」
 私の代わりに石田さんが答えると、映さんは眼鏡の奥で瞬きをする。そしてやっぱり心配そうに、私へ声をかけてきた。
「大丈夫なんですか? 無理して待ってたんじゃないですよね?」
「平気です。皆さんに膝掛けお借りしたり、お茶を入れてもらったりしましたし」
 座っていれば気分も楽だった。私の答えを聞いた映さんは、ほっと胸を撫で下ろす。
「それならいいんです。今日は俺もなるべく早く帰りますから」
 真面目な顔で気遣われると、何だかこっちが照れてしまう。思わずはにかんだ私の前で、石田さんが映さんの肩を叩く。
「ほら、バレンタインの贈呈式やるぞ」
「は? 何ですか、贈呈式って」
「お前の奥さんが持ってきたお菓子を、営業課を代表してお前が受け取るんだ」
「去年、そんなのやりましたっけ?」
 映さんが訝しそうに首を傾げていた。
 去年は営業課にいたあの子に持っていってもらったから、贈呈式があったかどうか、私は知らない。私は一筆書いて判を押して、お菓子に添えてもらっただけだった。
 だから改めて式典なんてするのもちょっと照れるけど――今年で最後だと思えばそれも、悪くないだろう。
 営業課の皆さんが一旦仕事の手を止め、その場に起立する。
 私はおせんべいの缶を両手で持ち、前に進み出た。石田さんから促され、営業課の中央で妙に畏まって立っている映さんに、その缶をしずしずと手渡す。
「バレンタインデーのお菓子です。皆さんでどうぞ」
「あ、ありがとうございます。調子狂うなあ……」
 ぼやきつつも映さんはお菓子を受け取った。
 贈呈の間、営業課内はお祭り騒ぎみたいに賑やかだった。割れんばかりの拍手と口笛が溢れ、囃し立てる人、歓声を上げる人、表彰式みたいに『見よ、勇者は帰る』を口ずさむ人と様々だ。
「その曲は、何か違うんじゃないかって気がしますけど」
 映さんは相変わらず首を傾げていたものの、お菓子の贈呈は無事に済ませることができた。あんまり賑やかで、最後のバレンタインだからってしんみりする暇すらなかった。
 でも、それでいいのかもしれない。湿っぽいのは私に似合わないし、私がこの会社を去ったとしても、映さんはまだここにいるんだから。今日は、映さんにとっては今までも、これから先も何度でもある二月十四日のうちの一つでしかない。その一つがこんなに楽しく、賑やかに過ごせたんなら言うことなしだ。
 贈呈式の後、私は速やかに退出することにした。あんまり長居をしてはそれこそご迷惑だろうし、皆が私を気遣ってくれているのもわかっていたからだ。
 皆からお菓子のお礼の言葉を賜り、最後に映さんが廊下まで見送ってくれた。
「寒いですから、気をつけて帰ってくださいね」
「わかりました」
 私は頷いた。それから、彼にだけ特別に言っておく。
「映さんもお仕事頑張ってください。今夜は、本命用のお菓子を作って待ってますから」
 その言葉に映さんは目を瞠った。でも彼が何か答える前に、営業課からはまたしても口笛や冷やかしの声が上がった。
「社内でいちゃいちゃすんなよなあ」
 石田さんが尖った口調で言ったせいか、映さんは慌てふためきながら振り返り、反論した。
「だったら聞き耳立てないでくださいよ!」
「立ててねーよ聞こえちゃったんだよ」
「嘘だ! 絶対嘘だ!」
 仲のいい二人の口論を背に、私も笑いながら、少しだけはにかみながら営業課を後にする。
 映さんは本当に、いい職場に恵まれたと思う。

 本当のことを言うと、退職するかどうか、一人で結構悩んだ。
 映さんは『どちらでもいいです』と言ってくれたし、私の気持ちを十分に尊重してくれた。私だって今の職場はいいところだと思ったし、もうかれこれ七年も働いてきたし、辞めるのが惜しくも感じていた。
 だけど、他に欲しいものがあったから。
 映さんといるとどうしても欲が出る。温かくて、優しくて、誠実な彼と家庭を築くうち、もっと高望みをしたくなってしまった。だから私は悩んだ末、仕事を辞めることにした。
 寂しい気持ちはあるけど、私の願いは叶ったから、同時にとても幸せだった。

 帰宅後、急いで暖房を点けて家を暖めた。
 それから夕飯の支度と、バレンタインデー用のお菓子作りを始める。調子が戻ってきて、台所に立てることを幸せだと思う。さすがにまだあまり手の込んだものは作れないけど、今後の為にレパートリーを増やさないとな、とこっそり考えている。
 早く帰ると言ってくれた通り、映さんは七時過ぎに慌しく帰ってきた。聞いたところによれば、皆から急いで帰れとどやしつけられたらしい。私は食事と一緒に、自作のティラミスを振る舞った。
「カフェインレスコーヒーを使ったから、ちょっと感じが違うかもしれません」
 私の言葉に映さんは、真面目な顔でティラミスを口に運んだ。そしてよく味わってから、嬉しそうな笑みを浮かべてくれた。
「美味しいです。味もそう違いは感じないですよ」
「よかった。普通のコーヒーにしてもよかったんだけど、そうなると味見しにくくて」
 最近は食べ物、飲み物にも神経質になってしまって、カフェインが入っているとどうしても気になってしまう。摂りすぎなければ問題ないとも聞くけど、落ち着くまでは控えておこうと思っていた。
 私は映さんの隣に座り、一緒にティラミスを食べた。出来栄えはまずまずで、マスカルポーネの酸味が引き立つさっぱりした味に仕上がっていた。おかげでくたびれていた気分もすっきりしたように思う。
「ありがとうございます、ゆきのさん。とっても美味しかったです」
 いち早く食べ終えた映さんは感謝を口にして、私のお腹にそっと手を当てた。
 もちろん中が見通せるわけではないだろうけど、その時、彼は何かを見つけたように眼鏡の奥の目を細めた。
「まだ半年もあるんですね……。早く会いたいなあ」
「早く出てこられたらちょっと困ります。しばらくのんびりしててもらわないと」
 私は笑いながら応じる。彼のその言葉には、しみじみ幸せも感じていたけど。
「先輩がたが胎教に協力するとか、ふざけたことを言い出すんですよ」
 映さんも幸せそうにぼやき始める。
「全く、あの人たちの話なんて聞いたら教育によくないっていうのに」
「そうかなあ。すごく楽しそうだから、早く出てきたくなるかもしれませんよ」
「早く出てきたら困るんじゃないんですか?」
 彼が素早く突っ込んで、それから二人で顔を見合わせて笑う。

 仕事を辞めたいと話した時、映さんは私がそう言い出した理由をちゃんとわかってくれていた。
『子供が欲しいんです。――だから、私、退職しようと思うんです』
 悩んだ末に打ち明けた私の願いを聞いて、そして叶えてくれた。
 私は映さんと結婚して、温かくて穏やかな家庭を手に入れた。誠実で優しい人の傍にいられて、この上なく幸せだと思った。これも惚気になるだろうけど、映さんは最高の旦那様だと胸を張って言える。口も出して言う機会はそうそうないものの。
 でも、思った。映さんは確かにいい旦那様だけど、いいお父さんにもなるだろう。
 温かくて穏やかな家庭ももちろんいいけど、そこに賑やかさが加わったら、もっといい。
 だから私は、高望みがしたくなったのだ。

「ホワイトデー、うちの課からお返しするって言ってましたよ」
 映さんはそう言って、私を気遣うように顔を覗き込んでくる。
「また贈呈式やろうとも言ってましたけど、その頃はゆきのさんも忙しいでしょうし、それなら俺が受け取っておきますから」
「そうですね……でも、できれば空けておくようにします」
 私も楽しい気分で答える。
 三月十四日はくしくも、私にとって最後の出勤日となる予定だった。やっぱりその辺りはどうしても忙しくなるだろうし、嬉しいことに秘書課で送別会を開いてくれるという話にもなっていた。それでもせっかくだから、ホワイトデーの日には営業課にも顔を出せたらと思う。
 お世話にもなったし――映さんのいるところでもあるし。
「無理はしないでくださいね。せっかく調子が落ち着いてきたところなんですから」
 優しい声で言いながら、映さんはもう一度私のお腹を撫でた。
 その時私は、この人でよかったなあって、本当に心から思った。
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