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一年三百六十五日の彼

 入籍した当日、式を挙げる一週間前。私たちは転居をすることになった。
 駅から五分の映さんのアパートは、二人暮らしにはどうしても手狭だった。将来のことも考えた末、結婚を機にもう少し広い部屋を借りた。職場が同じだと部屋を探すのは楽でいい。最寄り駅こそ変わってしまうけど、それなりに利便性のある市内の団地地帯へ新居を決めた。そうして思いのほかすんなりと、挙式前の引っ越しを決行することとなった。
 寂しい気持ちもある。正直に言えば、引っ越さずに済めばいいのになと密かに思っていた。結婚前から通っていた彼の部屋には愛着も思い出もいっぱいあったし、毎週末には当たり前のように泊り込んで、自分の荷物もちょこちょこ持ち込んで、まるで自分の部屋のように過ごしてきた。
 駅から歩いて五分のこの部屋とも、今日でお別れ。
 本当に、いろんなことがあった。うれしいことも、楽しいことも、幸せなことも――振り返ればいい思い出ばかりで、余計に寂しさを覚えてしまう。

「長谷さん、元気ないですね」
「えっ」
 映さんが顔を覗き込んできて、私は少し驚く。ジャージの上下に軍手という引っ越し装備の映さんは、気遣わしげな顔でこちらを見ている。心配してくれているようなのはわかる。でも。
 彼は自分が今、何と口にしたかは気がついていないようだ。
 揚げ足を取るようで悪いかなと思いつつ、恐る恐る告げてみた。
「もう『長谷』じゃないです、映さん」
 途端、眼鏡の奥の瞳がうろたえた。慌てふためく口調で言われた。
「あ、そうでした! すみません、つい」
「いえ、わかります。私もまだ慣れてないです、新しい名字に」
 今日の午前中に市役所へ行き、二人で婚姻届を提出してきたばかりだった。私はもう『長谷ゆきの』ではなくて『霧島ゆきの』だ。でも誰かに『霧島さん』と呼ばれて、即座に反応が出来るかどうか。
 映さんとも、交際を始める前からお互いに名字で呼び合ってきた。名前呼びに移行するタイミングも失してしまい、何となく名字呼び、職場での口調のままで今日までやってきた。だから私も意識的に、霧島さんを映さんと呼ぶようにしていたのだけど。
「ゆきのさん」
 と、映さんが私を呼んだ。思い切り気合を入れた、肩肘張った呼び方だった。私はどうにか笑いを堪え、はい、と返事をする。真剣な面持ちの彼が続ける。
「もし疲れているんだったら休んでいてください。引っ越しが二日連続では大変でしょう」
 彼の言葉通り、私は昨日も引っ越しをしていた。駅から徒歩で三十分のマンションを引き払ってきた。家具は既に新居の方へと移し、昨晩は彼のこの部屋に泊めてもらった。慌しいスケジュールの中、疲れていないといえば嘘になる。
 でも、この部屋にもちゃんとお別れがしたかった。
「大丈夫です。ちょっと考え事をしていただけで」
 私は軽く答え、自分の手元に視線を戻す。新聞紙で包んだ食器はまだダンボール箱の半分しか占めていない。もう少し迅速にやらなければ置いていかれてしまう。
「ならいいんですけど、くれぐれも無理はしないでくださいね」
 息をつき、映さんが立ち上がる。その背後に見えるのは、ダンボール箱が積み重ねられ、大物の家具が梱包されている室内。何だか知らない人の家に来ているようで心細くもなる。
 それでも、映さんがいてくれると気持ちが和らぐのがはっきりわかる。きっとどこへ行っても、住む部屋が変わっても、彼が隣にいてくれたら心配ない。寂しく思う必要だってないはずだった。

「――おい、サボるなよ霧島」
 玄関の方から石田さんの声がして、私と映さんはほぼ同時にそちらを向いた。
 映さんと同様に引っ越し装備の石田さんは、ダンボールを抱えながらからかうような表情を向けてくる。
「いちゃつくなら後にしろ。新婚早々色ボケしやがって」
「違います!」
 すかさず映さんが切り返す。
「俺は長谷さん――じゃない、ゆきのさんが疲れた様子だったから心配しただけで!」
「何だお前、籍入れてもまだ長谷さんを長谷さんって呼んでるのか」
 おかしそうな突っ込みを食らって、映さんがぐっと詰まる。
 私もそれはちょっと、面白いなと思う。こんなことならもっと早めに、名前で呼び合う練習をしておけばよかったかな。
「大体、霧島もいいご身分だよ」
 奥の部屋から、梱包材を畳む安井さんが顔を出す。やっぱり引っ越し装備で、やっぱりからかいたがっている顔をしている。
「引っ越しの手伝いなんて、普通は部下か後輩を呼ぶものなのに、こうして先輩を呼びつけて顎で使ってるんだからな」
「顎でなんて使ってませんよ!」
 映さんがさっきよりも迅速に反応した。安井さんと石田さんの顔を見比べるようにして続ける。
「先輩がたにはちゃんと頭を下げてお願いしたはずです。その言い方は不本意です!」
「わかったわかった。そういうことにしといてやる」
「長谷さんの前で声荒げるなよ。入籍早々愛想尽かされるぞ」
「なんで俺が悪いって流れになるんですか!」
 先輩二人に面白がられる映さん。いつもの光景はいつもの通りにおかしい。仲がいいんだなと思って、ちょっと羨ましくなる。
 今回の引っ越しに当たり、石田さんと安井さんは、快く手伝いを買って出てくれたことになっている。なっている、と表現したのはあくまで事実上はという意味であって、この三人が一堂に会した時、じゃれあいのような口論が発生しないはずがなかった。決して額面通りではない言葉のやり取りは傍で聞いている分には楽しいものだった。
 実際、安井さんの言う通りだった。後輩の引っ越しに手を貸してくれて、おまけに車まで出してくれる先輩は貴重だ。お二人とも優しい方だと思うし、映さんが先輩がたとそういう間柄でいられるのが羨ましい。
 映さんから噛みつくような、少しきつい物言いを引き出せるのは、多分あのお二人くらいのものだろうし。別に私までああいう物言いをされたい訳じゃないけど――仲がいいのは見ているだけでもわかった。
「それで、奥さんは大丈夫なのか?」
 安井さんがふと私を見た。優しく尋ねられて、一瞬、反応に困る。
 奥さん、と言うのは?
 ……あ、私のことか!
「奥さんじゃなかった?」
「いえ、合ってます。すみません、まだぴんと来なくて……」
 反応が遅れたことを笑われて、私も恥じ入りながら弁明した。
 そうか、奥さんなんだよね、私。映さんの。今日からはそう呼ばれる機会もたくさんあるだろうし、慣れておかなくちゃいけない。
 もちろん、霧島さんと呼ばれる機会だってある。次に出勤する時は名札から何から全て切り替わってしまう。あの会社にも、この街にも、『長谷ゆきの』という人間は存在しなくなる。今日からは違う名前で、新しい部屋に住んで、映さんの妻として生きていくことになる。
 そういう変化がうれしくもあり、慣れていないせいか、ほんの少し寂しくもあった。
 私と映さんは、見ているだけで仲がいいってわかるような、そんな夫婦になれるかな。
「大丈夫です。私、まだまだ働けます」
 なるべく元気に私が答えると、安井さんはほっとしたような顔になる。
「そうか、よかった」
 そして映さんへと視線を転じ、口調を変えて言い添えた。
「俺はてっきり、霧島との結婚を悔やんで落ち込んでるのかと思ったよ」
「な、何を言うんですか! そんなことないですよ!」
 水を向けられるとあっさりむきになる映さん。そういう反応が先輩がたを面白がらせていることには気づいていないのかもしれない。
 私でも、ちょっと面白いなと思うのに。
「いや、わかんないぞ。案外長谷さんも早まったと思ってるかもしれない」
 石田さんにまでそう言われて、映さんは自棄気味に応じた。
「そんな後悔、絶対に俺がさせません!」
 ――うわあ。
 先輩お二人はにやにやしていたし、叫んだ本人は大変に赤い顔をしていた。でも私は何だか幸せな気持ちで、しみじみとこの瞬間を噛み締めながら、食器の梱包を再開する。
 彼と結婚してよかったなと思う。それは本当に、強く思う。

 賑々しい会話を挟みつつ、引っ越し作業はどんどん進行していく。  しばらくしてから運送屋さんが来て、梱包を終えた荷物が次々と運び出されていく。一時間も掛からないうちに部屋は空っぽになり、私の知らない姿になる。まるで慣れないがらんどうの空間を掃除する。物寂しさを味わう暇もないまま、淡々と。
 それから大家さんに部屋を改めてもらって、鍵を返して、私たちはそのアパートを後にする。もう映さんのものではなくなってしまった部屋。記憶の中の光景は、もうどこにもなくなってしまった。
 記憶と同じ姿を留めているのは、アパートの外観だけだった。

 外から、彼の住んでいたアパートを見上げてみる。
 住宅街の一角。歩道のない狭い道路。この道を二人で辿ったことは何度もあった。それこそ付き合う前からずっと――駅から歩いて五分の道程を、二人で歩いてきた。私はいろんな『五分間』を、彼と共に味わってきた。
 一日のうちで、他のどんなことよりも一番楽しかった五分間。
 駅で会えなかった日の、寂しくてしょうがなかった五分間。
 二人でいるというだけで、瞬きほどのスピードで過ぎてしまった五分間。
 辿った道の光景も覚えている。人通りの多い駅前の交差点。道一本入っただけで人気のなくなる閑静な住宅街。こつこつと足音の響くアスファルトの道。花火大会のポスターを見つけた個人商店。何度か立ち寄った美味しいラーメン屋さん。等間隔に立つ電信柱と水銀灯。季節ごとの夜空の色、風の匂い、空気の温度。
 幸せな記憶のその全てが、確かに、今日へと繋がっていた。

「――ゆきのさん」
 映さんが、さっきよりも自然に私を呼んだ。
 アパート前の道路に車が止まっている。見慣れないSUV車は石田さんのもので、その後部座席のドアを開けている映さんの笑顔はいつもと変わりなく、優しい。
「出発しますよ、乗ってください」
 彼の言葉に私は頷き、後部座席へと乗り込む。運転席の石田さんと助手席の安井さんがそれぞれこちらを少しだけ見た。最後に映さんが車に乗って、ドアを閉めた。
 あの部屋とのお別れの時間が来た。
「寂しいですか?」
「え?」
 後部座席に並んで座る映さんが、私にそう尋ねてきた。私が目を瞬かせると、すかさず微笑んでくれる。
「ゆきのさん、何だか名残惜しそうな顔をしてます」
「……ちょっとだけ。あの部屋には思い出もたくさんありますから」
 私も笑って、正直に答える。あの部屋を離れるのはどうしても寂しい。新しい部屋に住み慣れるまでは、ずっと寂しいままかもしれない。
 でも、それはどんなことだって同じだ。初めのうちは何だって覚束なくて、手探りで、慣れて馴染んでしまったものを手放すのは寂しくて名残惜しい。
 名前が変わるのも、住む場所が変わるのも、寂しい。だけど初めのうちだけだ。それに今日からは、いつだって優しい人が私の傍にいてくれるから――それだけでも十分、幸せだと思う。
「思い出なら、これからまた作ればいいですよ」
 映さんは柔らかい声で言ってくれる。
「俺はゆきのさんに、寂しい思いなんてさせたくありません」
 くすぐったくなるような愛の言葉。私はほんの少し照れながら、頷いた。
「私も、その点はちっとも心配してないです」
 ――前の座席から盛大な溜息が聞こえてきたのは、直後のこと。
 とっさに視線を転じれば、助手席の安井さんが運転席の石田さんに苦々しい顔を向けていた。
「石田、どうしてお前の車には後部座席の射出機能がついてないんだ」
「俺も降ろせるもんなら降ろしたい。ナチュラルにのろけやがってあの野郎」
 その言葉に、私と映さんは顔を見合わせる。すぐに映さんがふっと笑って、何だかすごくうれしそうに応じた。
「先を越しちゃってすみません、先輩」
「――何がすみませんだ、悪いなんて思ってないくせに!」
「いい加減にしないとお前だけ降ろして置いてくぞ!」
「いやもう、幸せ過ぎて何を言われても気にならないです」
 心底から笑う映さんと、それを顧みて睨みつける先輩お二人。いつもと違う構図を見て、私は恐る恐る口を挟んだ。
「向こうに着いて一段落したら、おそばを茹でましょうか。天ぷらも揚げますから、是非お二人も召し上がっていってください」
 三人が一斉に私を見る。表情に『食べる』と書いてある。その揃いようがおかしくて、思わず吹き出してしまった。
 という訳で、私の奥さんとしての初仕事は、引っ越しそばの用意と相成りそうだ。

 車が走り出す。見慣れた光景からぐんぐんと離れ、私と映さんの新しい部屋へと向かっていく。
 今日からは、住まいも名前も何もかもが変わる。五分間よりも大きな単位で、映さんと一緒にいられる。今はまだ慣れない気持ちがするけれど、当然、幸せに違いなかった。

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