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一日千秋の彼女 中編

 彼女との待ち合わせ場所は、利用する交通手段によって異なる。
 バスで出掛ける時は彼女のマンションの近くにある、歩道橋下のバス停で待ち合わせる。電車の時は俺の部屋まで来てもらって、そこから駅まで二人で行く。彼女の部屋から駅へ向かう道の途中に俺のアパートがあるからだ。今日は電車なので、俺は狭い玄関で靴を履いたまま、彼女がチャイムを鳴らすのを待つ。
 こういう時、車を持っていたら便利なんだろう。先輩がたからもよく『お前の為じゃない、長谷さんの為に買え』とせっつかれるし、俺もあった方がいいのかなと時々思ったりする。だけど業務でさんざん乗っているから、休みの日は運転したくないというのが正直なところだ。休日くらいは営業の仕事も忘れていたい。
 もっとも、今日は仕事のことなんて思い出している余裕もなさそうだ。いつもよりも早く支度が済んで、靴を履いた頃から少々緊張してきた。まだ九月の下旬だからスーツは暑い。狭い玄関は蒸していて、そんな中でじっと座り込んでいる自分がいささか滑稽に思える。
 チャイムが鳴ったのは待ち合わせ時間の五分前だった。すかさず立ち上がってドアを開けたら、真正面に立っていた彼女が大きく目を瞠った。
「わ、びっくりした」
 それからおかしそうに微笑んで、
「早いですね、霧島さん」
「待ってました、玄関で」
 俺の正直な告白に、更に肩を揺すってみせた。狭い玄関の蒸した空気がたちまち清涼なものに変わったような気がした。
 予告通りワンピースを着ていた。涼しげな薄いグリーン、その上に同系色のカーディガンを羽織っている。緑が似合うのは彼女の、一向に失われない瑞々しさのせいだろう。一応同期で同い年のはずなのに、ここ二年で俺だけが歳を食って、彼女はまるで変わらないように見える。
 その服装に見とれていれば、長谷さんは可愛らしく小首を傾げた。
「おかしくないですか?」
「ちっともおかしくないです。素敵ですよ」
 俺は力一杯答える。そうしたら首を竦めて、くすぐったそうにされた。
「ありがとうございます。霧島さんも決まってますね」
「いや、それほどでは……俺はいつもと似たような格好ですし」
 建前上はレストランへ行くからという理由で、本当のところはもっと別の理由から、着ていく服をスーツに決めた。普段との違いがあるのかどうか怪しいものだけど、彼女は前向きな誉め言葉をくれる。
「私には、いつもとは違って見えます。表情が勤務中よりも柔らかくて、くつろいでいる感じに」
 くつろげるほどの余裕は、むしろ彼女の言葉によってようやく得られたみたいだ。二年も一緒にいればさすがに、久し振りに会った休日でも落ち着いていられるようになっただろうか。俺は照れ笑いと衝動を噛み殺そうとして、衝動にだけは僅差で負けて、玄関にいるうちから彼女の手を取る。
「あっ」
 声を上げ、目を瞠る彼女。すべすべした手を握ると、やがて滲むように笑われた。
「久し振り、ですね。手を繋ぐのも」
 二年も一緒にいれば、こういう時に長谷さんがどう感じているかもわかる。うろたえると口数が少なくなるのが彼女だ。うろたえさせているのが他でもない俺なのだと思うと、こっちの心拍数まで上がってくる。
「ええ、あの……やっぱり顔を見るだけじゃ物足りないですから」
 玄関の室温も上がる。頭が眩んでしまう前に、レストランがどうでもよくなってしまう前に、外へ出なければならない。急いで語を継ぐ。
「じゃあ、行きましょうか」
 彼女もはにかむ顔つきで頷いた。
「はい」

 眺めのいいレストランということで、本来はディナーにすべきだったのかもしれない。
 俺がランチで予約を入れた理由は、食事とプロポーズを終えたその足で指輪を買いに行こうと考えていたからだった。でもガラス張りのエレベーターに乗り込んだ時、夜景も良かったかもなとちょっと悔やんだ。昼間の景色に情緒はない。これはこれで悪くもないんだけど。
 ホテルの最上階にあるレストランは、この辺り一帯を網羅出来そうな眺望が売りだ。絶好の秋晴れの日、大きな窓からはひたすら高い青空と、陽射しを浴びた街並みとが見渡せた。席に案内されて早々、長谷さんははしゃいだ声を上げていた。
「わあ、いい眺め。山に来たみたいです」
 なるほど、そういう感想もあるのか。情緒がないと決めつけるのは尚早だったかもしれない。
「行楽の秋と食欲の秋がいっぺんに楽しめますね」
 むしろ俺の反応の方が情緒に欠けていたかもしれない。
 彼女はうれしそうな顔をして、
「それは最高の組み合わせだと思います」
 と言ってくれたものの、もう少し気の利いたことを言うべきだったと思ってしまう。気が利かないのは今に始まった話じゃない、でも今日は特別な日だ。その瞬間までに気分を盛り上げておかなくてはならない。
 そもそも、いつ切り出すべきなんだろう。
 食前か食後か。食べている間でもいいんだろうか。美味しい食事ですね、ところで結婚しませんか、なんてあんまりスムーズな流れじゃない。でも帰り際までには言わないと、指輪を買いに行くタイミングが外れてしまいそうだしな。難しいな。
 俺があれこれ考えている真正面、白いクロスの映えるテーブルを挟んだ向こう側で、ふと彼女がカーディガンを脱いだ。線のきれいな二の腕と、剥き出しのつるりとした肩に落ちた丸い光とにいとも容易く目を奪われる。女性のパーツのどこが一番魅力的かという話題についても俺と石田先輩と安井先輩の意見が合致することはなかったけど、先輩がたがどう言おうと俺は絶対に二の腕だと思う。そして長谷さんはノースリーブが世界一似合う。
 こちらの反応に気付いてか、彼女はちらっといたずらっ子みたいな表情をひらめかせた。
「霧島さんが喜んでくれるから、着てきました」
 はい、もう、本当に喜びます。最高です。一生俺の為にノースリーブを着ていてください。――という言葉を慌てて飲み込む。
 駄目だ、いくらなんでもそんなプロポーズは駄目だ。こういう時こそ格好良く決めなければ、いつ決めるというのか。
 グラスの水を一口飲む。冷たさが喉を下って胃まで落ち、ようやく頭が冴えてくる。眼鏡の傾きを直すと、レンズと白いテーブル越しに彼女の笑顔と向かい合う。いつも我が社のエントランスで浮かべているのと同じ笑顔。
 ジンクスを信じて失敗したことは一度もなかった。何でも上手くいった。
 今こそ、改めて信じるべきだ。
「長谷さん」
 意を決して呼び掛ける。
 彼女は怪訝そうに瞬きをした。が、直後に視線を横へずらした。ちょうど前菜が運ばれてきたところだったからだ。お蔭で俺は配膳が終わるまで待たなくてはならず、肩に力が入った状態でしばらく、気まずい思いをしていた。間の悪さも相変わらずだった。
 皿を並べ終えたウェイターが立ち去ってから、彼女がそっと反応を返してきた。
「霧島さん?」
 そうやって呼ばれるのは好きだった。恋人同士なのにいつまで名字で呼び合う気だと石田先輩辺りは言うけど、俺にとってはこの呼び方も貴い。何せ営業課の面々の中、一番に名を覚えてもらったのが俺だという事実がある。他の課員を差し置いて長谷さんに呼んでもらえるという幸せがこの二年間、俺を支えてきたといっても過言ではない。
 もっとも、それだけではないからこうして、切り出そうとしている。更に幸せになる為に。
「お願いがあります」
 ジンクスを信じて、告げる。
「俺と、結婚してください」
 ここで怯むのは最も格好悪いから、誤魔化しようも翻しようもない言い方をした。
 だけどそのせいだろうか、長谷さんはかなり驚いたようだ。初めに虚を突かれたような顔をして、それからしきりに瞬きをした。何を言われたのかわからない様子にも見えたから、答えを待つこっちの方がはらはらしていた。あったはずの自信が消え失せてしまった数秒間。生きた心地がしなかった。
 しばらくしてからようやく飲み込めたのか頬を赤らめて、喉のつかえが取れたみたいに息をつきながら言ってきた。
「……はい」
 そして、どぎまぎしているのがよくわかる口調で、続けた。
「あの、私でよければ、是非」
 実はそれからが大変だった。プロポーズの返事を、しかもOKを貰えたというのに、俺はものすごく無様ににやけてきてしまって、どうにかして真面目な顔を作っていようと必死だった。だけど無理だ、口元が緩んでしまってしょうがない。表情どころか身体ごと全部溶けてしまうんじゃないかとさえ思えた。
 心配はしてなかったとは言え、ジンクスを信じていたからちっとも不安なんてなかったものの――やっぱり、非常にほっとした。うれしかった。どうしよう俺、今夜は寝られないかもしれない。いや寝なくてもいいか、彼女を連れて帰るんだから。
 どうにか笑いを噛み殺したところで、お礼を言った。
「ありがとうございます」
「いえ、こちらこそです」
 長谷さんまでなぜか頭を下げてくる。その後で、はにかみながらふと、
「でもびっくりしました。今日言われるとは思ってなかったから……」
 まだうろたえている声で言われた。よほどびっくりさせてしまったんだろうか。可愛いな、十分知ってたけど。
「いつだと思っていたんですか」
 ちょっと余裕の出てきた俺は、調子に乗って尋ねてみた。
 返ってきたのは恥ずかしそうな答えだ。
「もうじき霧島さんの誕生日があるから、その頃かなって……。それかクリスマス頃じゃないかなと、私はそう思ってました」
 言われて初めてそれら節目の存在を思い出してしまう、情緒のない俺。そういえばそうだった。誕生日も十二月二十三日も、改まってのプロポーズをするにはいい日だったのかもしれない。むしろそういう口実を存分に利用しなければならない頃もあったんだなと、つい三年前のことを懐かしく思ってしまう。
「どうして、今日にしたんですか」
 逆に長谷さんから問われて、俺は一瞬答えに窮したものの、正直に言うことにした。
「特別きっかけはないんですが、強いて言うなら、久し振りに会ったからです」
「……そうなんですか?」
 今日一番びっくりしたらしい彼女の、丸くなった瞳。そこへ向かって打ち明けておく。
「実を言うと、指輪のカタログはずっと前から貰ってきてたんです」
「霧島さんらしいですね」
 なぜか、おかしそうにされてしまった。
 彼女の言う俺らしさってどういう点なんだろうな。例によっていまいち決まらなかったプロポーズの後、俺も少々の気恥ずかしさは味わっていた。
 それでも安堵の方がより大きくて、運ばれてきた食事の味も存分に堪能出来た。
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