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一日二十四時間の彼 その後

「何分、物のない家ですみません」
 霧島さんは非常に申し訳なさそうな顔をしていた。
 そんなに気を遣うこともないのに、と思う。夜までを過ごすのに、別に必要なものがあるとは思えなかった。霧島さんさえいてくれたら。
「二人でいたら、それだけで楽しいですよ」
 私は本音のつもりで言ったものの、彼が奥の部屋から取り出してきた『遊び道具』に対しては、やや反応に困っていた。
 リビングのテーブルの上には、トランプとドンジャラがある。
 彼曰く、彼の部屋にある、数少ない娯楽なのだそうだ。
「トランプもドンジャラも、二人でするにはいささか、物足りないですよね」
 眉尻を下げた彼はそう語る。問題はそこなのかなあ、と私は思う。
「長谷さんが来るとわかっていたら、もう少し気の利いたものを用意しておいたのですが」
「突然お邪魔しちゃってすみません」
「いえいえ、お会い出来てうれしいです! でも退屈だから帰る、なんて言われてしまったらどうしようかと」
 そんなことは言いません。本当に、霧島さんさえいてくれたら、二十四時間ずっとでも退屈なんてしないはず。ましてや帰るつもりなんて。
「それにしても、ドンジャラって懐かしいですね」
 私は色あせた紙のケースを眺めて、ちょっと笑ってしまった。懐かしいアニメキャラクターの顔が描いてあるドンジャラは、そういえばうちの実家にもあったような気がする。子どもの頃にねだって、買ってもらったのをおぼろげに記憶していた。
「でしょう。俺、好きなんです」
 嬉々として、霧島さんが語る。
「マージャンと違って、役が覚え易いから楽しいんですよ」
「ああ、でも、男の人の部屋って言ったら、どっちかっていうとマージャンの方がよくありそうな気がします」
 彼以外の男の人の部屋を知らない訳じゃない。だけど、ドンジャラがある男の人の部屋というのは想像出来なかった。ある意味とっても霧島さんらしい。
「先輩方にも同じように言われました。普通マージャンだろって突っ込まれました」
 彼はそう言ってはにかんだ。
「でも三人でやったら、これが結構楽しかったんですよ。案外盛り上がって、三人揃ってびっくりしました」
「石田さんたち、よくここにいらっしゃるんですか」
 むしろ私はその事実の方に驚いた。営業課の皆さんは仲がよさそうだと常々思っていたけれど、家に遊びに来ているほどだとは。その光景がまた容易に想像出来てしまうから困る。ドンジャラでどんな風に盛り上がったのかも何となくうかがえて、いいなあ、と思ってしまう。そういう男の人同士の関係に、女の子はなかなか踏み込んでいけないものだ。
 私の問いに、彼は苦笑いを浮かべてみせる。
「よく、というほどでもないです。まだ二、三回ですよ」
「でも私よりも多いです」
「それも、先輩方に言われました。いつになったら長谷さんを部屋に連れ込むんだって――あ、いえ、招待です。いつ招待するのかと、そういうニュアンスで言われただけです、本当です」
 言い直された辺りの真偽はあえて解明せずにおいた。霧島さんも大いに慌てていることだし。
 私としても、一度目の訪問だけで終わらせてしまうつもりはなかった。
「これからたくさん、お邪魔してもいいですか」
 今日は既に踏み越えるべきボーダーラインを、たくさん越えてしまっている。今更何を告げるにも勇気は必要ないはずだった。
「もちろんです」
 彼も、ためらわずに頷いてくれる。
「たくさんいらしてください。先輩方よりもたくさんいらしていただけるとうれしいです」
「じゃあ、そうします」
「ええ。仕事が一段落したら、また機会を設けましょう」
 そうして卓上のトランプとドンジャラを指差し、至ってにこやかに尋ねてきた。
「では、どちらにしましょうか」
「……せっかくですけど、私は霧島さんとお話をしているのが、一番楽しいです」
 これも本音のつもりだ。決してトランプとドンジャラが嫌いな訳ではないけれど――さすがに二人でやっても盛り上がりはしないだろうとも思っていたけれど、さておき娯楽なんていうものが必要なはずはなかった。私は霧島さんと会いたかったし、霧島さんも私に会いたかったと言ってくれた。その気持ちだけで十分なはずだ。
「だからこうやって、お話していませんか?」
 私が尋ねると、彼も少し考えた後で、照れ笑いと共に言ってくれた。
「そうですね。あの、俺、あまり話題の多い方ではありませんけど……」
 十分です。出会ってから今に至るまで、霧島さんと一緒にいて、退屈を感じたことは一度もありませんから。
 きっと二十四時間一緒にいたって、退屈する訳がない。

 床の上に並んで座って、それから自然と手を繋いだ。
 あえて視線は合わせずに、二人でぽつぽつ、取り留めのないことを話す。
「霧島さん。後でコンビニに行きたいんですけど、構いませんか」
「ええ、いいですよ。お付き合いします」
「すみません。化粧品とか、何も持ってこなかったから」
 繋いだ指先が熱い。どちらの手がより熱いのか、よくわからないくらいに熱い。
「今、コンビニには何でもありますよね」
「そうですよね。便利な世の中になりました」
「コンビニの方がまだ、面白い娯楽が用意されているかもしれませんね」
「霧島さん、こだわりますね。……もしかして退屈ですか?」
「い、いえ、ちっともです!」
 窓の外の陽はまだ高い。夕飯時はまだ遠い。
 だけど夜が待ち遠しいのは、退屈だからではないとわかっている。
「長谷さん」
「なんでしょう?」
「もしよかったら、一旦帰って、必要な物を取ってきていただいてもいいですよ」
「え?」
「あの、女性の方はいろいろと必要ですよね? こういう時って……」
 何やら自信なさそうに尋ねてくる霧島さん。男の人はそうじゃないんだろうか。私は興味深く思いながらも答えた。
「いえ、いいです。コンビニで済ませちゃいます」
「そうですか。俺は余計に散財させてしまうのではないかと、申し訳なくって」
「平気です」
 散財と言っても大した額じゃない。お金で霧島さんとの時間が買えるのなら安いもの。忙しい時期ならそれさえ叶わないのだから。
 それに、
「ここから離れたくない気分なんです、本当は」
 一旦自分の部屋に帰ってしまったら、ふつりと途切れてしまいそうな気がした。ここに至るまで紡いできた自分の気持ちも、今ここにある穏やかな熱情も。ここにあるものの全てが失われてしまうような、根拠のない不安があった。ほんの少しも失いたくなかったから、私は彼と手を繋いだまま、ここにいたかった。
「長谷さん」
「……霧島さん」
 名前を呼ばれて、呼び返して、視線をぎくしゃく合わせてみる。
 眼鏡越しの眼差しは思いのほか鋭く、私は息を呑む。
「俺も、離れて欲しくはないです、本当は」
 息をするように言った彼は、だけど直後にこう添えた。
「でも……帰りたくなったら、正直に言ってください。無理強いはしません」
「平気、です」
 即答した私をどんな風に思っただろう。繋いだ手に込められた力が、少し強くなる。
 怖いとは感じない。
 でも今更みたいに少しだけ、緊張している。
「じゃあ、二十四時間一緒にいてください」
 その言葉の後で、彼は私の額に口づけた。
「夜まで待てなかったらすみません」
 気恥ずかしそうな謝罪を囁かれて、私も、そうかもしれないなと思う。

 結論から言うと、天ぷらうどんは美味しかった。
 天ぷらは概ね上手くいった。鍋がなくてフライパンで揚げたものでも衣がさくさくしていたし、細く冷たいうどんとよく合った。夕飯どころか夜食のような遅い食事になってしまったけど、それこそ天ぷらうどんは適任だった。二人で楽しく食べた。
 食事の後で、私と霧島さんは近くのコンビニへと出かけた。
 おぼろ月の夜。まだ涼しい風は肌に心地よく、手を繋いで歩くのにちょうどよかった。コンビニの明かりは午前一時を回っても煌々としている。なぜだかちょっと、照れてしまう。

 二十四時間のまだ半分だ。霧島さんと一緒にいたのは。
 残りの十二時間はどう過ごそうか、手を繋いだまま考えている。
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