Tiny garden

解けない魔法をかけてあげる

 そもそもの発端は従姉だった。
 従姉のなつめさんは三つ年上の大学生で、それはそれはきれいな人だ。
 いつ会ってもメイクはばっちり、ネイルも素敵で、ヘアアレンジだって忘れない。もちろん着ている服もお姉さんっぽくて可愛くて、スタイルもよくて、私の憧れの人だった。

 そのなつめさんがある日曜日、私に電話をかけてきた。
『芹ちゃーん、服買うからついてきてー』
 それで私も私なりにおめかしをして、まずは従姉の家へ駆けつけた。
 ところが、なつめさんは私を見るなり呆れた顔をしてみせた。
「何その微妙なワンピ。魔女なの?」
「変かな? お気に入りなんだけど……」
 くるぶし丈の黒いワンピースは夏らしいコットンローンだ。脚を出すのが恥ずかしいから、いつもこの丈のワンピを着ている。
 だけどなつめさんは眉を顰めて駄目出しをした。
「服見に行くのにそのワンピはないわー。着替えて」
「今から帰ったら出発遅くなっちゃうよ」
「なら私の貸したげるから。ほら入って!」
「でも、なつめさん――わ、わっ、脱がしちゃだめー!」
 結果、私は従姉の部屋に引きずり込まれて彼女の服を着せられて、化粧にコテにネイルにとあらゆる改造を施された。

 一時間かけて支度を終えると、鏡の中には私じゃない私がいた。
 長い髪をルーズなゆる巻きにして、白いオフショルダーブラウスから覗く肩に垂らしている。黒いショートパンツをはいた脚の先には、夏らしいターコイズブルーのネイルが光っている。睫毛は瞬きだけで風を起こせそうなほど長く、くるんと上を向いていたし、唇はアプリコットオレンジでつやつやしている。アイラインを引いてもらったのも初めてなら、アイシャドウを塗ってもらったのも初めてだった。
「シンデレラの魔法ってこんな感じかな……」
 私が思わず鏡に見入ると、なつめさんも得意そうにしていた。
「どうだ、参ったか。魔法をかけてあげたよ」
「すごい! なつめさん、本当に魔法使いみたい!」
 思わず絶賛したら、なぜか苦笑いされてしまった。
「芹ちゃんも手抜かないできれいにしなよ。高校生でしょ?」
「高校生だからしてないんだよ」
「そのくらいなら今時、普通に化粧してるでしょ。私もしてたし」
 クラスの女子には学校でもこっそりマスカラをしたり、ネイルを塗ったりしている子もいた。
 でも私は、そういうものがどうにも恥ずかしかった。クラスでも真面目で通ってる地味キャラなので、背伸びしていると思われるのが嫌で、今までそういうものに投資をしてこなかった。
 だから今日の変身には、嬉しさと同時に落ち着かなさも覚えている。
 知り合いに会わないといいけど――これだけ化けていたら、会っても気づかれないかもしれないけど。

 かくして魔法にかけられた私は、なつめさんと一緒に街へ繰り出した。
 行き先は電車で六駅ほど先にある隣の市だ。この辺りはいわゆる新興商業地域で、新しめのショッピングモールやファッションビルが建ち並ぶ、何だか賑やかな界隈だった。なつめさんは服を買うとなるといつもここへ来るらしいけど、私は来るのも初めてだった。
 なつめさんは私を連れて、意気揚々と店を見て回る。
「今日は夏ニットとガウチョ、できれば羽織りものも見たくてね」
 お目当ての品がたくさんあるようで、次々とお店をはしごしては品物を物色していく。
 途中で何度となく店員さんに話しかけられて、
「ご姉妹ですか? すごーい、お二人揃ってとっても美人!」
 なんて言われてもちっとも慌てない。
「従姉妹同士なんです。夏物の新作見てるんですけど、お薦めあります?」
 誉め言葉は笑顔で受け流し、欲しいものの情報を見事に聞き出していた。
 私はと言えば、リップサービスであろう誉め言葉にもあっさり撃沈したけど――なつめさんと姉妹だなんて。二人とも美人だなんて、誉めすぎにも程がある。すっかり顔が赤くなってしまった。
 それでのぼせたか気疲れしたのか、お買い物スタートから三時間が経過した頃、私はぼちぼち疲労と喉の渇きを覚えた。
「なつめさん、お買い物まだかかる?」
 借りたミュールはサイズが合っていても足が痛い。剥き出しの肩や太腿がお店の冷房ですっかり冷えて、温かいものが欲しくなってきた。
 それで聞いてみたのに、なつめさんは元気に答えた。
「あと五軒くらいかな。それ全部見たら終わるからね」
 それ全部見て歩くのにあと何時間かかるだろう。
 私もさすがに音を上げた。
「ごめん、どこかで座って待ってていい?」
「いいよー。そこのカフェで待ち合わせしよっか」
 なつめさんがショーウインドウ越しに、真向かいに建つビルの一階を指差す。
 そこには普段の私なら見向きもしないような、アーティスティックなカフェが入っていた。
「あそこはドリンクもフードも結構いけるし、雰囲気よくて落ち着くよ」
 どうやら、なつめさんにとっては行きつけのお店であるらしい。
「付き合ってくれたお礼に奢るから、好きなもん頼んでて」
 申し出はもちろん嬉しかったけど、一人で行くのはどきどきものだった。
 だってあんなお店も、生まれてこのかた入ったことない。

 そのカフェは、古い倉庫を思わせるような内装に仕上がっていた。
 コンクリート打ちっぱなしの壁と床、天井の照明は剥き出しの電球、テーブルは木だけど塗装が剥げたような加工がしてあり、全席ビロード張りのソファが置かれている。カウンターにはよく磨かれたサイフォンやジューサーがあり、電球の明かりの下でオレンジがかったように光っていた。
 緞帳に似た臙脂色のソファに腰を下ろし、恐る恐るメニューを開く。
「あ、よかった。日本語だ……」
 メニューに並んでいたのはエスプレッソやカプチーノ、カフェラテといった親しみやすいドリンクばかりだった。全く知らない飲み物ばかりだったらどうしようかと思っていた。
 一方、フードメニューの方は難解で『フリットを乗せたジェノヴェーゼ』や『ニース風オープンサンド』、『完熟フルーツのマチェドニア』などなど、写真がなければ何かわからないものばかりだ。味の想像もあまりつかない。
 とりあえずお腹は空いていなかったから、冷えた身体を温めようとカフェラテを注文した。
 そして注文を終えてから、何となく心細くなる。
「なつめさん、まだかな……」
 普段は友達と行ってもせいぜいファストフードだ。こんなカフェにはご縁がなくて、だからか一人でいるのが落ち着かない。
 店内にいる他のお客さんは、誰もが大人っぽい服装の人ばかりだ。なつめさんが見ていた服屋さんに売っているような、素敵で今風の服を着た人達――今日は私もきれいな格好をしているし、気後れする必要はないんだけど、やっぱり引け目を感じてしまう。地味な高校生にはこういうカフェ、ちょっと早すぎたのかもしれない。
 そのまま店内をあてもなく見回していると、
「あれ、佐和田?」
 低い声が、いきなり私の名字を呼んだ。
 何気なくそちらに目を向ければ、傍らに男の子が立っている。
 同級生の中でもひときわ大人びた、凛とした顔立ちには見覚えがあって――。
「佐和田芹だよな? うちのクラスの」
「ぐ……郡司、くん……?」
 出くわしたクラスメイトに一発で見抜かれて、私は思わず凍りつく。
 郡司くんも驚いたのだろう。目を見開いたかと思うと、何だか楽しそうな顔をした。
「佐和田って、普段そういう格好してんの?」

 郡司くんはクラスでも目立つグループに属している男子だ。
 一年、二年と続けてクラスメイトになっていて、イベントごとに活躍する姿を私もよく知っていた。体育祭のサッカーでは味方のパスを誘導して見事ゴールを決め、文化祭でも率先してクラスを盛り立てまとめあげる。去年やってきた教生先生への寄せ書きを発案したのも彼だった。クラスの中で、いつも大勢の友人に囲まれているのが彼だ。
 もっとも私は、二年間同じクラスでも彼と話をしたことはない。
 私はクラスでも地味なグループに属す、生粋の地味キャラだった。

 だからこそ、彼に私だと見抜かれたことが意外だった。
 何でわかったんだろう。なつめさんの『魔法』ですごくきれいになったはずなのに。メイクその他でも隠せない地味キャラオーラが滲み出てたんだろうか。
「ち、違うの、これは訳ありで」
 私が弁解すると、郡司くんは遠慮なく吹き出した。
「何それ。訳って何だ」
「えっと、大したことじゃないんだけど……」
「訳あるのかないのかどっちだよ。マジで謎だな佐和田」
 なぜか、めちゃくちゃ笑われている。
「い、一応あるんだけど、些細なことっていうか」
 あまり話さない人に説明するのは難しくて、私はしどろもどろになった。
 すると郡司くんは店内を見回し、こう言った。
「ってか佐和田、一人? 混んでるし、相席いいか?」
 気づけばカフェにはお客さんが増えていた。
 なつめさんが来るまでには時間もかかりそうだし、クラスメイトを邪険にするのも気が引ける。
「あ、うん。ど、どうぞ……」
 私がおずおず頷けば、
「ありがとな」
 郡司くんはテーブルを挟んで向かいのソファに座った。
 それから店員さんを呼んで、モヒートティーソーダを注文した。

 程なくして、カフェラテとティーソーダが同じタイミングで運ばれてきた。
 その間、郡司くんはずっと興味深げに私を眺めていた。私は私で、勢いで相席を了承しちゃったものの、クラスの男子と二人きりなんて荷が重い。何となく黙りこくってしまう。
 気まずい沈黙がしばらく続いた。
 その間でさえどこか楽しそうにしていた郡司くんは、ティーソーダを一口飲んでから切り出した。
「で、佐和田はどんな訳あり?」
 改めて聞いてもらったので、私もカフェラテで気を落ち着けてから答える。
「えっと、事の発端はうちの従姉なの。大学生で、すごくきれいな人なんだけど……」
 私の従姉が『きれいな人』だと言って、果たして信じてもらえるだろうか。少々不安に駆られたけど、郡司くんは笑うでもなく聞いてくれている。
「買い物に誘われて……お気に入りのワンピ着てきたら、従姉に『魔女みたい』って駄目出しされて」
 そこでは郡司くんも吹き出した。すぐに慌てて謝ってきたけど。
「ごめん、笑って。けど魔女みたいなって?」
「黒一色のシンプルな、くるぶし丈のワンピ、かな」
「ああ、そりゃ魔女だわ。箒乗ってるわ」
 郡司くんもその点は、なつめさんと同意見らしい。
 私は苦笑しつつ、更に続けた。
「それで従姉に脱がされて、この服貸してもらって、メイクとヘアセットもしてもらって――っていう感じ」
「無理やり? 佐和田の従姉なのに強引なんだな」
 まあ、私には似てない。それは事実だ。
 でも、
「従姉はね、私が言うのも何だけど素敵なお姉さんで、憧れてたの」
 なつめさんへの誤解は払拭したくて、私は慌ててフォローした。
「だから私も最初はびっくりしたけど、無理にされたとか、嫌々付き合ってるってわけじゃないの。むしろ、なつめさんみたいになれてすごく嬉しくて、姉妹みたいって言われたりしてて……」
 言いながら照れてしまった私を前に、郡司くんはぽかんとしていた。
「あ、ご、ごめんなさい。身内の話されても微妙だよね」
「いや、そんなことない。へえ……」
 私が謝ると彼は物珍しそうな顔になり、それから興味深げに膝を進める。
「で、その『なつめさん』は? 一緒に買い物来たんだろ?」
「今、まだお店見てる。あと五軒くらい見たいって言ってたから、私だけ休憩に……」
 さっきの段階であと五軒なら、もう三十分くらいはかかりそうだ。
 郡司くんになつめさんを見てもらったら、一目で納得してもらえそうなのに。
「なら、もう少しここにいられるんだな」
 もう一口ティーソーダを飲んで、郡司くんがそう言った。
「そう、だね。ここで待ってないと」
 私は頷き、そこでようやく真向かいに座る彼を観察する余裕ができた。
 郡司くんはソファの上に大きな紙袋を載せていた。なつめさんと行ったお店の一つのロゴが描かれていて、中身はお洋服かなと思う。
「あの、郡司くんは今日は、お買い物?」
 沈黙が怖くて、私はたどたどしく質問をぶつけた。
「ああ。欲しいシャツがあったから、ちょっと一人で足伸ばしてみた」
 愛想よく答える彼は、よく見れば大人っぽい服装をしていた。夏らしい薄手のテーラードジャケットに白いシャツ、細身のジーンズ。七分丈の袖から覗く男の子らしい手首には、革ベルトの腕時計が巻かれている。
 男子の私服なんてあまり見たことないけど、郡司くんはその凛とした顔立ちにふさわしい服装をしていると思う。
「でも一人で来て正解だったな。佐和田と会えた」
 郡司くんが謎めいた言葉を口にしたので、私は思わず聞き返した。
「私に?」
「その格好、佐和田に似合ってる」
「え……そ、そんなこと――」
「何でだよ。すごくいいよ、今の佐和田」
 謙遜すら満足にできない私に、郡司くんが目を細める。

 男子から、誉められた。
 そういう経験はもちろん十六年半の人生で初めてのことだ――私の容姿を誉めてくれるのはこれまで、なつめさんを筆頭に身内の皆さんだけだった。

 だから私は動転してしまって、
「で、でもこれ、いつもの私はこんなんじゃなくて、何て言うかもっとアレで……」
 挙動不審に反論したせいで、郡司くんは細めた目を瞬かせる。
「アレ?」
「う、うん。これは、シンデレラの魔法みたいなものだから」
 事実その通りだから、真面目に言ったつもりだった。
 だけど郡司くんはやっぱり吹き出した。
「そこまで言うか?」
「そうだよ。私だけの力じゃとてもとても……」
「けどシンデレラって、ドレスと靴を貰っただけだろ。元が美人だから魔法できれいになれたんじゃないのか?」
 彼が続けた言葉に、私はうっと詰まる。
 言われてみれば。シンデレラを自称したのは自惚れだったかもしれない。何だか顔が熱くなってきた。
「佐和田もさ――」
 郡司くんが更に何か言いかけた時、不意に私の携帯電話が鳴った。メールの受信音だ。
「あ、ごめん。ちょっと確認するね」
 私は彼に断ってから画面を覗き、メールの内容を確かめる。多分なつめさんだろうと思ったらその通りで、買い物が終わったのかもしれないと胸を撫で下ろしかけた私の目に、衝撃の本文が飛び込んできた。

『ナンパされてるとかすごいじゃん。お邪魔しちゃ悪いし先帰るね☆』

 一度では内容が理解できなくて、二回読み返した。
 そして理解した途端、頭を殴られたような衝撃を受けた。
「ちがっ……違うよ、待ってなつめさん!」
 慌てて立ち上がって辺りを見渡したけど、カフェの店内に従姉の姿はない。
 店の入り口まで駆け寄ってはみたものの、表の通りを歩く人波にもそれらしき人は見つからず――つまり、なつめさんは本当に帰ってしまったようだ。私を置いて。

 すごすごと席に戻れば、郡司くんが心配そうに迎えてくれた。
「何、どうした?」
 それで私は項垂れつつ、彼に事情を打ち明ける。
「従姉、先に帰っちゃったみたいで……置いてかれたの」
「何で?」
「えっと、私が郡司くんといるのを――何と言うか、変に誤解したみたいで」
 ナンパがどうこうと口にはできず、ぼかして告げただけなのに、郡司くんはあっさり全てを理解したようだ。
「男といたから邪魔になるかも、って気遣われたわけか」
「すごい、その通りだよ」
 言い当てられた事実はさておき、私は途方に暮れていた。
 なぜかと言えば、この辺りは初めてだ。なつめさんは買い物と言えばここと言っていたし、自分の庭みたいな感覚でいるんだろう。だけど私にとっては電車で六駅先なんて遠い異国みたいなものだ。来る時に降りた駅の場所さえあやふやだった。
「どうしよう……郡司くん、駅への道ってわかる?」
 心細くなった私は、目の前のクラスメイトに助けを求めた。
 何か目印になる建物でも教えてもらえたら、そう思っての問いかけだったけど、彼は怪訝そうに答える。
「わかるけど、佐和田、もう帰るのか?」
「うん。なつめさん帰っちゃったし、私この辺詳しくないから、迷う前提で歩かないと……」
 すっかり困り果てた私を、郡司くんは思案顔で見つめてきた。
 やがて言ってくれたのは、
「なら、一緒に帰るか?」
 思いがけない申し出、だった。
「……え? で、でも、迷惑じゃない?」
「全然。俺も帰るところだったし」
 そう言うと彼はティーソーダを飲み干し、それから身軽に立ち上がる。
「駅まで連れてってやるよ。行こう、佐和田」
「あ……ありがとう……」
 彼の素敵な親切に、お礼の言葉がかすれてしまった。
 でも嬉しかった。すごく、すごく嬉しかった。

 それで私は郡司くんと、一緒に電車に乗っている。
「本当にありがとう。お蔭で無事に電車乗れたよ」
「礼なんていいって」
 何でもないように肩を竦める郡司くんが、優しいなと思う。
 午後三時過ぎの電車は程よく空いていて、私と郡司くんは座席に隣り合って座っていた。
 彼とはこれまでろくに話したことがなかった。それが今日、一緒にお茶して、一緒に帰ってるんだから不思議なものだ。これも魔法のお蔭だろう。
「親切にしてもらえて、嬉しかったな……」
 私がおずおずと告げると、郡司くんは静かに笑った。
「同じクラスだろ、気にするなよ」
「そ、そっか。そうだね」
「こっちこそ、普段見れない佐和田が見られて嬉しかったよ」
 更に彼がそう続けて、私は、急に寂しさを覚えた。
 シンデレラの物語と同じように、なつめさんの『魔法』にも制限時間がある。帰ったらもう、今の私はおしまい。明日にはいつもの私に戻って登校し、そして郡司くんと会うんだろう。
 その時、郡司くんは、今日みたいに私と話してくれるだろうか。
 私は、郡司くんと話せるだろうか。
「でも、今日の私は本当の私じゃないから……」
 言い訳みたいに呟くと、隣で郡司くんが首を竦める。
「『本当の』って言うけど、佐和田は、どうしたって佐和田だろ」
 それから彼は少し考えるように目を伏せて、ぽつぽつと言葉を継いだ。
「俺もな、普段は学校とかで友達と騒いだりするのが好きなんだ。大勢でくだらない冗談とか言い合って笑ってるのが何より楽しいって思ってる」
 それは私が知っている、いつもの郡司くんの姿だ。
 私とはまるで正反対の彼、だ。
「けど、時々ふっと、一人になりたくなることがある」
 次に続いたのは意外な言葉だった。
「騒がしいのに疲れたり、もっとよくわからない――『何となく』って気分で、一人でいたいと思うこともある。そういう時は今日みたいに誰も誘わないで出かけて、買い物したり店入ったりするし、そういうのも実際楽しいんだ」
 ビル街を縫うように走る電車の中に、午後の光がフラッシュのように瞬き、駆け抜けていく。
 郡司くんの大人びた顔にも光と影が交互に差して、私の知らない彼を浮かび上がらせていた。
「それって多分、どっちも本当の俺だよな」
 彼は言う。
「騒がしいのが好きな俺も、一人でいたい俺も、どっちも確かに俺なんだ」
 迷いなく断言した後で、凛とした表情で私を見る。
「だからお前も、今のが本当の自分じゃない、なんて思うなよ」
 その表情も、言葉も、はっとするほど強かった。
「今の佐和田も、間違いなく佐和田だ。本物だろ」
 郡司くんはそう言うけど。
「シンデレラだって、魔法の力だけできれいになったんじゃない」
 物語ではその通りだ。
 けど――。
「私は……」
 考えがまとまらないまま何か言おうと口を開いた時、車内アナウンスが鳴った。もうじき降りる駅に着く。
「あ……私、ここで降りるね」
「……そっか」
 それから電車が停まるまで、私も郡司くんも奇妙に押し黙っていた。
 駅に着いて、ドアが開いて、
「じゃ、じゃあ……郡司くん、今日は本当にありがとう」
 早口でお礼を言った私が慌ただしくホームに降り立つと、
「佐和田!」
 背後で郡司くんの声がして、とっさに振り向いた。
 戸口に立つ彼はその時、酷く寂しそうな顔をしていた。だけど目が合ったら途端に大人びた笑みを浮かべて、よく通る声で言った。
「また学校で。気をつけて帰れよ」
「う……うん、郡司くんも――」
 そこで発車ベルが鳴って、無情にもドアが閉まる。
 でも窓の向こうの郡司くんは笑っていて、私はその笑顔を呆然と見送った。
 見惚れていたのかもしれなかった。

 駅から帰宅する前に、なつめさんの家に立ち寄った。
 例の魔女ワンピや自分の靴を預かってもらっていたからだ。
「芹ちゃんお帰り! どうだった?」
 なつめさんは私の帰りを手ぐすね引いて待ち構えていた。もちろん私を置いてけぼりにしたことなんて悪いとも思ってないみたいだった。
「どうもこうも、ナンパとかじゃないから!」
 私は大慌てで事の次第を説明した。
 一緒にいた子はクラスメイトで、普段と違う私を珍しがって声をかけてきたこと。なつめさんが帰っちゃって道もわからない私を駅まで連れてってくれたこと。彼がいなかったら私は迷子になってたかもしれないこと――なつめさんはそれらの話を、私のメイクを丁寧に落としながら聞いていた。
「つまり、結果オーライってことだよね」
「違う! どう聞いたらそうなるの!」
「でも、私のお蔭でクラスの男子と仲良くなれたんでしょ?」
 なつめさんには一切悪びれる様子がなかった。
 ただ、今の言葉には素直に頷けなかった。仲良くなれたのかどうか――自信はなかったからだ。
 郡司くんは『また学校で』、そう言ってくれた。だけど明日、私たちは今日みたいに話ができるだろうか。
 メイクを落とし、髪を結わえ、魔女ワンピに着替えた私はすっかり魔法が解けていて、いつもの地味キャラに逆戻りしていた。これが私。いつもの、本当の私だ。
 それなら、さっきまでの私は?
 魔法の力できれいになった私は、本当の私だろうか。
「……なつめさん。もし、もしもだけど」
 私はやがて、従姉に尋ねた。
「今日みたいになれるメイクを覚えたいって言ったら、教えてくれる?」
 キャラじゃない。地味な私には似合わない。ずっとそう思っていた。
 だけど私は、魔法の力を自分のものにしたくなった。
 自分の手でメイクやヘアセットができたら、それは本当に私なんじゃないかって、そう思った。
「いいけど」
 なつめさんはなぜか不満げに口を尖らせた。
「芹ちゃん、私がやれって言ってもやらなかったくせに。何でころっと変わっちゃうかね」
「う、それはそうなんだけど――」
「男か。やっぱ男なのか」
 そうかも。多分。
 でも郡司くんの言葉、嬉しかったんだ。あんなふうに誉められたの初めてだった。
 だから、今日の私も本当の私にしたい。
「ま、何でも奢るって言ったしね。そのくらい、たまに教えたげてもいいよ」
 なつめさんはそう言ってくれた後、冷やかすように微笑んだ。
「それに可愛い従妹の恋ですもの、応援しちゃう!」
「えっ、あの、こここ恋とかそんな……!」
 そう……かもしれない。多分。

 月曜日、私は妙にどきどきしながら登校した。
 なつめさんから教わったばかりのメイクは学校にはしていけない。だけどその分スキンケアを頑張った。髪だってしっかりブローしてきたし、ほんのり色がつくリップカラーも試してみたりして。
 今まで『地味キャラだから』でスルーしてきたこと、全部試してみたいと思う。

 郡司くんとは、朝早い生徒玄関で顔を合わせた。
「おはよう、佐和田」
 彼は私を見つけるなり声をかけてくれて、
「お、おはよう、郡司くん」
「髪下ろしてきたのか。似合ってる」
 私の変化にも気づいて、誉めてくれた。
 当然どぎまぎしてしまったけど、ぎこちなくでも笑い返してみた。
「ありがとう……」
 郡司くんと話せるようになりたくて、昨日の私も本当の私にしたくて、頑張ることにした。
 もちろん一日で全部身につくわけじゃない。なつめさんから学ぶべきことは山ほどある。だから私も時間をかけて、じっくり頑張ろうと思っている。
「あ、あのね。従姉に、メイクとか習うことにしたの」
 それを郡司くんにも打ち明けると、彼は心なしか嬉しそうに笑った。
「そうなのか」
「うん。まだ時間はかかるけど……いつか、昨日の私を本当の私にするつもり」
 次の言葉はちょっと恥ずかしかったけど、
「だから、もしメイクを完璧に覚えたら……あの、メイクを頑張ってもまだ服は魔女ワンピしか持ってなくて。だから――」
 怪訝そうな郡司くんに、ちゃんと告げた。
「買い物、付き合ってくれないかな。あの街まで」

 私にとっては一世一代の告白、のつもりだった。
 だけど郡司くんは困ったように笑って、
「佐和田がメイクを完璧に覚えるまで、待ってなきゃ駄目か?」
 と聞き返してきた。
「え……えっと」
「佐和田は佐和田だろ。昨日みたいにしてなくたって」
 ちょうどその時、隣のクラスの子が生徒玄関に入ってきた。彼らがすれ違うのを目で追った後、郡司くんは屈み込み、私の耳元で言い添える。
「いつでも付き合う。声かけてくれよ」
 とっさに私は顔を上げ、すぐ目の前で笑う郡司くんを見た。
 いつも大人びた顔の彼が、くすぐったそうにはにかんで私を見ていた。
 スキンケアしておいてよかったって思う。こんなに近くで見つめられたら、今までだったら自信がなかった。
 できれば次はもっときれいになっておきたい。解けない魔法をかけられるように。

 私たちはその後もしばらく、朝の生徒玄関で見つめ合っていた。
 次に別の生徒が現れた時には慌てて離れる羽目になったけど――それまでは恥ずかしくて、どきどきしているくせに、目を逸らせなくて困った。
「もしかしたら、魔法にかかったのは俺の方だったりしてな」
 一緒に教室へ向かいながら、郡司くんがふと呟いた。
「どんな魔法?」
 私が聞き返すと彼はちょっとの間考えてから、
「……佐和田のことが気になってしょうがなくなる魔法、かな」
 と言った。

 それも、解けない魔法になるといいな。
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