Tiny garden

プールサイドの記憶

 更衣室を通り抜けてプールサイドへ出ると、夏の熱気を肌に感じた。

 薄曇りの日だった。
 雲を透かした陽射しが古びたプール一面を照らしている。むわりと篭もるような暑さに満ちた、真夏の正午前。
 本来ならば今日みたいな日は、絶好のプール日和になるはずだった。夏休み期間中のそこそこ蒸し暑い日。水着を着て飛び込めば、さぞ心地いいに違いない。
 しかしここはがらんとしている。子供たちの歓声も、水の跳ね上がる音も聞こえない。
 乾いた風が時折、ぐるりと張り巡らされたフェンスを揺らしていく。その音以外はごく静かだった。

 ひと気のないプールは物寂しい。ましてや屋外にあるプールは夏ぐらいしか出番がないというのに、哀れ今年の夏はその出番さえ奪われてしまったのだ。誰も見向きもしなくなったプールに、足を運んでいるのは僕一人だった。
 僕だって泳ぎに来たわけじゃない。溜息をついて、ロッカーから掃除用具を取り出す。
 モップを手に一歩を踏み出した僕は、しかし直後、思わず声を上げた。
「あれ、君……」
 見知らぬ女の子が、プールの中にいたからだ。

 年の頃は高校生くらいだろうか。陽を浴びて明るい髪色をした彼女は、競泳用の水着に身を包み、端に寄り掛かるようにしてぼんやりプール一面を眺めていた。ほっそりとした首には、ご丁寧に水中眼鏡の用意までされている。
 僕の驚く声を聞きつけると、ゆっくり首を動かしてこちらを見遣った。
 幼い面差しが目を瞠る。
「すみません」
 と、彼女が口を開いた。
「水、張らないんですか」
 良く通る声ではきはきと尋ねてきた。
 呆気に取られていた僕は、思わずかぶりを振る羽目になった。否定の為じゃなく、幻でも見たんじゃないかという気になったからだ。
 空っぽのプールの中に立つ水着姿の女の子。他には誰もいない。プールには水が張られていない。なのにどうしてここに、水着を着て立っているんだろう。
 思わず足を確かめたくなる。――ちゃんとあった。よかった。
「申し訳ないけど、張らないよ」
 そう答えてから、慌てて言い添える。
「と言うか君ね、ここは立ち入り禁止。勝手に入っちゃ駄目」
「私、泳ぎたいの」
 添えた注意には聞く耳持たず、彼女は強く主張した。駄々っ子のような口調だと思った。
「今日は泳ぎに来たんです。ちゃんとほら、水着にも着替えたし。だから水、入れて貰えませんか」
 更衣室も鍵が閉まっているのに、どこで着替えたっていうんだ。
 ――と思ったら、スタート台の上にジャージと思しき布地が畳んで置いてあった。なら、水着は家から着てきたんだろうか。子供だなあ。
 ともあれ、彼女の主張は聞き入れられない。理由になるはずもない。
 僕は内心呆れつつ、首を竦めた。
「駄目だってば。僕にそんな権限もないしね。どうしても泳ぎたいなら、新しい市民プールに行きなさい」
 あそこはここよりずっといい。屋内にあるから天気も問わないし、広くて設備も充実しているそうだから、お蔭でいつも賑やかそうだ。何より建ったばかりでぴかぴかだ、泳ぐのも気持ち良いだろう。
「ここがいいの」
 なのに彼女はそう言い張って聞かない。
「ここ、泳ぎやすいんだもん。お日様が射すから暖かいし」
 確かにそれは屋外プールにしかない醍醐味だ。
 今日は薄曇りだけど、濡れた肌を温めるのに十分なくらいの日射はある。気温だって随分と高い。僕にもその魅力がわからないわけじゃない。
「でも、市民プールだって暖かいよ」
 常に暖房が利いてるからね、と付け足すと、たちまち彼女は不機嫌そうに唇を尖らせる。
「そういうことを言ってるんじゃないんです。ここがいいの。このプールで泳ぎたいの」
 頑迷に主張する彼女に付き合うのもくたびれた。
 そもそもここは立ち入り禁止なんだ。フェンスを乗り越えて侵入したんだろうけど、勝手に入られちゃもちろん困る。
 とは言え僕は管理人じゃないから、無理矢理追い出す権利もないと言えばなかった。
 それでも掃除を任されている者として、注意だけはしておく。押し問答をしてる暇だってない。
「さっきから言ってるけど、ここは立ち入り禁止だよ。今なら誰にも言わないでおいてあげるから、早く出ていってくれないかな」
 モップの柄の先に顎を乗せ、僕は彼女にそう告げた。
 聞こえていないはずはないのに、彼女が動く気配もない。
 僕の方をじっと見上げる、幼い表情が言い返した。
「このプールにはたくさん思い出があるんです」
「ふうん」
 聞いてあげれば満足するだろうか。仕方なしに相槌を打つ。
「私が初めて泳いだのもこのプールでした」
「そうなんだ」
「お父さんに手を引いて貰ってバタ足からの練習でしたけど、手を離された時もちゃんと泳げてた時はすっごくうれしかった」
 事実、ここを訪れる家族連れは多かった。子供の手を引いて泳ぎを教えている親の姿も見たことがあった。長年ここで働いてきた僕の記憶にも焼きついている。
 毎年夏になれば、このプールはとても賑わった。天気のいい日は子供たちの歓声と水しぶきがひっきりなしに上がって。芋洗いって言葉が相応しいくらい混み合っていた頃もあったっけ。
「本格的に水泳をやろうって思ったのも、このプールがきっかけだったんです。初めて五十メートルを泳ぎ切れた時……」
 競泳水着を着た彼女が、五十メートル先の向こう岸へと視線を馳せる。
「いざ水泳を始めてみたらタイムが思うように伸びなかったり、楽しいことばかりじゃなかったけど。それでも壁にぶち当たった時、夏のこのプールで思い切り泳げば、何もかも吹っ切れて新しい気持ちで取り組めたんです」
 僕は彼女の明るい髪色を見て、ふと、あれは塩素のせいかもしれないなと考えた。
 水着の似合う細い身体は、今は力なくプールに寄り掛かっている。水の中でならもう少し活力を見せるのだろうか。
「高体連の地区大会も、ここで開かれてたんです。知ってますよね?」
「ああ、知ってる」
 尋ねられて僕は頷く。毎年、そうだった。ここは様々な大会の会場にもなっていた。
 彼女が満足そうな笑みを浮かべた。
「私、去年の大会では優勝したんですよ。女子の自由形で。ここで泳ぐなら誰にも負けないって思えたんです。どこで泳ぐよりも気分が良かったから」
「そうかあ」
 何となく溜息をつきたくなって、僕はそうした。
 しんみりする気分だった。ここは彼女にとっても思い出深い場所だったようだ。長い年月の間にここを訪れた人々は、それぞれの思い出を作っている。その記憶自体は簡単に失われるものじゃないだろう。だけど。
 形のあるものは失われる。
 なくなってしまうものもある。

 僕の溜息を聞きつけたのか、彼女がきゅっと眉根を寄せた。
「どうしても閉鎖、しちゃうんですか」
「ああ」
 頷くより他に答えはなかった。
「どうしてですか」
「どうしてって言われてもな……」
 予算が切られた。単にそれだけの話だ。
 もちろんそこに行き着くまでにはいろいろな理由があった。屋外プールなんて天候に左右される場所は今時流行らない。近くにきれいな屋内型プールも建った。新しいものが好きなのは皆、そうだろうし、吹き曝しで古びて行くばかりのところには足が遠退いてしまうのも無理もない話だろう。
 このプールは閉鎖した。
 つい先日のことだ。
 だからもう立ち入り禁止だ。彼女も、それから、今日が終われば僕も。
「閉めないでください。ここが好きなの」
 彼女が懇願する表情で言っても、僕は苦笑を返すほかない。
「ごめんね。僕にはどうしようもない」
「だって、あなたはここのプールの人でしょう?」
「今日まではね」
 ここのプールで働いてたからって、上まで意見を通せるわけでもない。そもそも自分の身の振り方さえ満足に選べもしない立場だ。
 僕は苦笑いしたままで彼女に告げた。
「今日、ここの掃除をするのが、このプールでの最後の仕事だ」
「そうなの?」
「そうだよ。明日からは何の係わりもない人間になる」
 もっとわかりやすく言ってしまえば、クビになったってこと。
 でも、そこまで言わなくても彼女にもわかったらしい。はっとする表情になって、瞬きを繰り返していた。
「最後だから、特別にぴかぴかにしてやろうと思ってね」
 僕にとってもここは思い出深い場所だった。例えば子供たちの歓声。跳ね上がる水飛沫の輝き。それから泳ぎ終えた人の満足げな表情や、真夏の陽射しの強さや、ここへ吹きつける熱風。
 ここへ来ることができなくなっても、忘れることはないと思う。
 たくさんの思い出をくれたプールへせめてもの感謝を込めて、これから、最後の仕事をするんだ。
 僕には、そのくらいのことしか叶わない。

 気まずいような、それでいて不思議と穏やかな沈黙があった。
 乾いた風がフェンスを揺らす、微かな音だけがしばらく続いた。

 ややあってから、俯き加減の彼女が口を開いた。
「じゃあ、もうどうしようもないの?」
 陽の光が透かす明るい髪が、鈍い光沢の水着に流れ落ちる。
「どうしようもないね」
 僕は顎を引いて答えた。
 彼女だってこのプールにはたくさんの思い出があるようだ。ありがたいことに、愛着もあるのだろう。他にも、失いたくないたくさんの理由があるのかもしれない。
 だけど、どうしようもない。僕にも彼女にもそれ以外の人にも、どうにかできることじゃなかった。
 もう、ここには水が張られない。
 泳ぐことだってできない。
 ここを訪れる人たちが新しい思い出を作ることも、叶わない。
「……そっか」
 ぽつりと彼女が呟いた。
 だけど次の瞬間、勢いよく顔を上げて、
「じゃあ私、いつか近い将来、スター選手になるから」
 強い眼差しで僕に告げた。
「え……?」
「水泳の選手になって活躍して、お金を貯めるの。そしてこのプールを買い取って、また皆が泳げるようにするの。私が水泳を始めるきっかけになったプールだって、きっと脚光を浴びるに決まってる」
 あまりの言葉に、僕は思わず耳を疑った。
 語るにしちゃ随分と剛胆な夢だ。若い女の子らしい短絡さも見えた。一朝一夕で叶う夢でもない。
 だけど彼女はとても真剣だ。
「そしたらおじさんのことも雇ってあげるね。おじさんなら、プールをとても大切にしてくれるだろうから」
 きっと凛々しい顔で宣言されてしまった僕は、笑うこともできずに、内心で密かに息をつく。

 ああ、そうか。
 僕もおじさんなんて呼ばれる歳になったんだな。
 何もかもが変わってしまうのも、形あるものが失われて行くのも、仕方のないことだ。

 でも多分、思い出は失われない。
 少なくとも彼女のこれからを支える記憶は、彼女の内にずっと留まり続けるだろう。そうしていつか彼女の望みは全て叶ってしまうかもしれない。
「ありがとう」
 気がつけば、素直に感謝を口にしていた。本当にうれしかった。
 彼女はかぶりを振って、髪を揺らした。
 ふと幼さの遠ざかった、大人びた表情で言った。
「こちらこそ、長い間ありがとうございました」
 いい顔をしている。花形選手の風格は既にあるのかもしれない。
「いや、お礼を言うのはこちらの方だよ。長い間、来てくれてありがとう」
 僕は微笑んだけど、彼女は笑わずに僕を見ていた。
 寂しさも憂いもない、真剣さだけを湛えた強い眼差しで、真っ直ぐにこちらを見ていた。

 しばらくしてから彼女は、無言でプールから上がった。
 無駄のない、しなやかな身のこなしだった。水中での機敏な動きを連想させる力強い動作。すとんとプールサイドに着地した両足が、真っ直ぐに彼女の身体を支えている。姿勢がとても美しい。
 思わず目を奪われた僕に、振り返った彼女は言った。
「おじさん、私も掃除を手伝っていい?」
 振り向きざまの表情は、まだもう少し幼い少女のものだった。
 駄々を捏ねる用意はできているようだ。
「君さ、僕が駄目って言ったら帰ってくれる?」
 言い返した僕は、既に諦めの気持ちでいた。
「ううん、やだ。私もぴかぴかにしてあげたいんだもん」
 そう言うだろうと予想もついていた。

 歩み寄ってきた水着姿の彼女に、僕はおとなしくモップを引き渡す。
 そしてロッカーへもう一本取りに戻ろうとして、ふと思いついて口を開く。
「ところで、君」
 せっかくだから、未来のスター選手の名前を、聞いておきたいと思った。


競作企画『vs.Glim.』参加作品
イラストレーション:『Glim.』さま
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