Tiny garden

シェパーズパイが食べたくて(2)

 翌日、私は酔いを引きずらずに出勤した。
 ただ体調はさておき、内心はとても焦っていた。
「おはよう、泉さん」
 オフィスでザッカリーさんとお会いした時は、心臓が跳ねるかと思った。
「お、おはようございます。昨夜はごちそうさまでした」
 そして間髪入れずに続ける。
「それと、すみません。昨夜はかなり酔っ払ってたみたいで……」
 失礼なことを言ったような気もするし、それ以前に上司の前でげらげら笑いすぎた。
 あんなに拗ねてるザッカリーさんを笑うなんて、失礼にも程がある。
「どうして謝る? 楽しかったよ」
 などと、ザッカリーさんはいつものように優しく言ってくれたけど。
「いえ、普段はあんなに羽目外さないんです!」
「確かに、飲み会でもあんな泉さんは見たことないな」
 憧れの上司の前では常に真面目な部下でありたい。
 そう思う私は、職場の飲み会でも真面目な態度を貫き通してきたつもりだった。
 それが昨夜は気が緩んだのかどうか、すっかり酔っ払ってしまって――。
「失礼な態度を取っていなければいいのですが……」
 平身低頭の私を、ザッカリーさんは一笑に付した。
「気にしすぎだよ。失礼なんてなかったし、謝らなくていい」
「はい……ありがとうございました」
 私は改めて頭を下げる。

 それでザッカリーさんも短く息をつき、踵を返して私の前から去っていく。
 ――と思いきや三歩進んだところで、何か思い出したように振り返って、早足で戻ってきた。

「泉さん」
「は、はい」
 囁く声で名を呼ばれ、どきっとしたのも束の間。
 ザッカリーさんは青い目で真っ直ぐに私を見据え、酷く真剣な面持ちで言った。
「また、誘ってもいいか?」
「え……えっ?」
「昨夜は本当に楽しかった。嫌じゃなければ、またあの店に一緒に行きたい」
 信じがたいことを言われた。
「改めて、っていうのも変だけど。駄目か?」
 照れたように付け加えられて、もちろん駄目なはずがない。
 だけど、いいんだろうか。
「ぜ、是非っ。いつでも誘ってください」
 うろたえながら、声を裏返らせながらも私が答えると、王子様然とした顔に嬉しそうな笑みが浮かんだ。
「よかった。都合をつけたら、また連絡するよ」

 そうして彼がこの場を、本当に立ち去ってしまった後。
 やっぱりまだ酔いが残ってるんじゃないかと、私は思わず頬をつねった。

 憧れの人に、またしても誘われてしまった。
 これって――き、期待してもいいの、かな?
 いやいやまさか、そんなことって――。

 数日経った退勤後の夜、私は一人で"Sleeping lion"へ向かっていた。

 どうして一人かと言うと、本当はザッカリーさんと一緒に行く約束をしていた。
 だけどあと一時間で定時というタイミングで、ザッカリーさんに急ぎの仕事が入ってしまった。
 残業嫌いの上司はそれはもう不満げにしていた。
「楽しい予定がある時に限ってこれだ……」
 そして私をこっそり呼びつけると、他の人には聞こえないよう囁いた。
「今夜は先に行っててくれ。最大限の力で仕事を終わらせて、追い駆けるから」
 懇願するような囁き声にどきどきしつつ、私は黙って頷いた。

 正直に言えば、今日は少し緊張していた。
 ザッカリーさんには前回と違って、デートみたいな誘われ方をしていたからだ。
 もちろん、デートと決まったわけじゃない。ザッカリーさんだってそうとは明言しなかったし、全てが私の勘違いだという可能性も十分にある。
 でも、以前とは明らかに何かが変わった。
「ではお先に失礼します」
 言われた通りに一足早く退勤する際、私が挨拶をした時もそうだ。
「泉さん、お疲れ様」
 ザッカリーさんは私と目を合わせた後、内緒話の表情で微笑んだ。
 そして青い瞳で悪戯っぽく目配せをくれたのを、一人歩く私は何度も思い返している。
 あんな目を向けてもらったのは初めてだ。

 三年も彼の下で『真面目な部下』をやってきた。
 だから些細な変化は手に取るようにわかるし、その変化にどうしようもなく期待してしまう私がいる。
 期待、してもいいんだろうか。でももし、違ったら――。

 二度目の来店となったパブは、午後六時過ぎとあってまだ空いていた。
 私が入っていくと、カウンターにいたウェズリーさんがすぐに気づいてくれた。とっさに微笑んでから、おやっという顔になる。
「ザックは? 一緒じゃないのか?」
 挨拶より先にそう問われた。
「お仕事があるので先に行っててと言われたんです」
 私が正直に答えれば、ウェズリーさんは呆れたように肩を竦める。
「そんな理由で女性を一人にするのか。しょうがない奴だな」
 それからクリスマスツリーが置かれたカウンター席を指し示し、勧めてくれた。
「イズミさんが一人で飲んでたら男どもが寄ってくるだろ。ここに座りなよ」
「ありがとうございます」
 さすがに一人は心細かったから、そのお気遣いが嬉しかった。
「ご注文は?」
「ロンドンアイスティーをお願いします」
「気に入ってくれたみたいだな」
 私の注文にウェズリーさんは得意そうにする。
 それから続けて尋ねてきた。
「シェパーズパイはいかがかな? この間、随分気に入ってくれたみたいだけど」
「それは、ザッカリーさんが来てからにします」
 私はかぶりを振って答える。
 確かにシェパーズパイは美味しかったし、お腹も空いていたけど、それはザッカリーさんも同じだろう。お腹を空かせて残業中の上司を差し置き私だけ、というわけにはいかない。
「優しいねえ。果報者だよ、あいつは」
 ウェズリーさんは見事な日本語で言い、私の為にお酒を作ってくれた。

 できあがったロンドンアイスティーのグラスを受け取り、カウンター席に座る。
 手が空いているからか、ウェズリーさんが私の前に来て話しかけてきた。
「イズミさんは、あいつとは長いの?」
 あいつとは、言うまでもなくザッカリーさんのことだろう。
 長いかどうかはわからなくて、私は首を傾げる。
「ザッカリーさんの下で働いて三年になります」
「それは出会ってからってことだろ? 付き合ってからは?」
「――えっ!?」
 今、とんでもないことを尋ねられた。
 思わず固まる私を見おろし、ウェズリーさんはにやにやと冷やかすような笑みを浮かべる。
「ザックが恋人を、それも日本人の彼女を連れてくるとは思わなかったよ」
「こ、ここ……! 違います、全然違います!」
 私は大慌てで否定した。
 願望はあれど事実ではない。誤解はちゃんと解いておかなければ、ザッカリーさんを困らせてしまう。
「え、違うの?」
 ウェズリーさんが青い目を大きく見開く。
「だってファーストネームで呼び合ってるだろ」
「いえ、それは……ザッカリーさんのことなら、職場の皆がそう呼んでます」
 私も初めは戸惑ったし、『ブラウニングさん』と呼ぶ方がふさわしいんじゃないかとも思った。
 だけど外国人上司とはそういうものだって皆が言うし、部下の中にはザッカリーさんをフランクな呼び捨てにする人さえいる。私はどうしてもできなくて、英語ではありえない『さん』付けをしていた。
「それに私は、アキホ・イズミという名前なんです」
「アキホ、がファーストネーム?」
「はい」
 漢字で書くと泉明穂。
 どちらも名前っぽいと言えば、そうかもしれない。
 その事実にウェズリーさんは軽いショックを受けたようだ。おでこを押さえて天を仰いだ。
「おお……ごめん、失礼な勘違いしてた」
「いえ、失礼なんてことはないです」
「そうか、ザックが彼女連れてきたんじゃないのか……」
 少し残念がりながら、申し訳なさそうに苦笑していた。

 きっとウェズリーさんは前回お会いした時から勘違いをしていたんだろう。
 ザッカリーさんをからかうそぶりがあったのも、彼女連れだから冷やかしてやろうなんて思ったからかもしれない。
 そう見られていたという事実には頬が火照ってしまったけど、名前の呼び方だけで恋人同士だと思うのは早計じゃないだろうか。

 疑問を抱く私をよそに、ウェズリーさんは溜息まじりに続ける。
「ようやく店に来てくれたから、恋人を紹介しに来たんだと思ったよ」
「『ようやく』?」
 その言葉も引っかかるものがあった。
 ザッカリーさんはウェズリーさんと親しいし、このお店の常連なんだと思っていた。シェパーズパイだって『この味だ』と言っていたし――。
 だけどウェズリーさんはむしろ意外そうに聞き返してくる。
「あれ、聞いてないのか? ザックがうちの店に来たの、前のが初めてなんだよ」
「いいえ、何も」
 驚いた。とてもそんなふうには見えなかった。
 でも私以上に、ウェズリーさんが愕然としていた。
「じゃあさ、俺のことは何て言ってた?」
「ウェズリーさんのこと、ですか?」
「ああ。俺があいつの兄だって話はしてるよな?」
「そうなんですか!?」
 思わず大きな声が出て、まだ人の少ない店内で他のお客さんが振り返る。
 私は慌てて口を押さえたけど、知らされたばかりの情報は到底呑み込みきれそうにない。

 ウェズリーさんとザッカリーさんが、兄弟。
 いや、確かに一度、似ているなと思ったことはあったはずだ。
 青い目の悪戯っぽい表情が、お二人は確かによく似ていた。

 でもザッカリーさんは、そんなこと一言も言わなかった。
「やっぱりまだ、怒ってんのかな……」
 ぽつりと、ウェズリーさんが寂しそうに零す。
 そして青い目を私に向けると、ぎこちない苦笑を見せた。
「俺さ、昔、ザックをめちゃくちゃに怒らせたことがあって」
 今のザッカリーさんからは『めちゃくちゃに怒る』姿なんて想像できない。
 気さくで優しくて、いつだって理想の上司だ。
「どうしてですか?」
 立ち入ったことかなと思いつつ尋ねる。
 するとウェズリーさんは、金色のヒゲが残る顎を撫でた。
「ザックが少年時代を日本で過ごしたのは知ってるだろ?」
「はい」
「でも高校を卒業する時、本国に帰った。両親たっての希望で、向こうの大学に通う為でもあった。本人は抵抗もあったみたいだけどな――家では英語使ってたとは言え、日本語も染みついて、友達も日本人ばっかだったから」
 ウェズリーさん自身も流暢な日本語で続ける。
「そんな折、この不肖の兄が単身日本に残るって言い出したわけだよ。俺は日本の大学出てたし、夢もあった。こっちでパブを開くって夢がな」
 そうして店内を満足そうに見渡した後、困ったように首を捻った。
「ザックのやつ、それ聞いた途端に大激怒だよ。そりゃそうだよな、自分は住み慣れた日本を離れなきゃならないのに、兄がわがままで一人残るっていうんだから。それでなくてもあいつ、昔はお兄ちゃんっ子だったしな」
 お兄ちゃんっ子だったんだ。
 少年時代のザッカリーさん、すごく可愛かったんだろうな。
「それでめちゃくちゃに怒られて、拗ねられて、ザックはそのまま向こうに帰った。しばらくは電話も出てくれなかったし、メールの返事もくれなかったな」
 そこまで語ると、ウェズリーさんは物憂げな顔になる。
「さすがに今はいい大人だし、ザックがまた日本で暮らすようになって、普通に兄弟やってるよ。実家に帰る時は一緒に帰るし、たまに買い物に付き合わせたりもする。でもどういうわけか、うちの店には一度も来てくれなかったんだ」
「気まずいと思っているのかもしれませんね」
 私が口を挟むと、同じように思ったかウェズリーさんは頷いた。
「そうなんだろうな。気にしないで来ればいいのに」
 そして日本に戻ってきてからの数年、ザッカリーさんはお兄さんのこの店に足を運ばなかった。
 なのに、この間は私を連れてきてくれた。
「初めてのご来店が女の子連れだもんな。そりゃ誤解もするって」
 弁解するように言って、ウェズリーさんは私を見る。
 ザッカリーさんと同じ青い瞳が、愉快そうにくるくる躍っていた。
「今は付き合ってないけど、時間の問題ってことはない?」
「な……ないですよ! 全然!」
「そうかなあ。ザックが好意も何もない子を、ずっとわだかまりのあった俺の店に連れてくるとは思えないけどな」

 そうだったら、私はもちろん嬉しい。
 だけどそうでないことはわかっている。

 だから私は、ウェズリーさんに打ち明けた。
「あの日は、私がとてもお腹を空かせていたんです」
 憧れの上司にお腹の音を聞かれた。
 それがきっかけだった。
「そしたらザッカリーさんがシェパーズパイのことを教えてくれて、どんなものか想像がつかないと言ったら、今から食べに行くかと聞いてくれて……」
 思い返してみればあの時、ザッカリーさんは意を決したような顔をしていた。
 きっと、ウェズリーさんのお店に来るきっかけが欲しかったんだろう。
 もしかしたらとても長い間、そのきっかけを探していたのかもしれない。
「だから、私を誘ったことには深い意味はないと思います」
 正直に告げると、ウェズリーさんはがっかりした様子だった。
「つまりイズミさんを口実に使ったってわけか……女性に失礼じゃないか、ザック」
「いえ、いいんです」
 私はちっともがっかりしていない。
 あの夜のザッカリーさんがどうして誘ってくれたのかがわかって、むしろ晴れやかな気持ちだった。
「私がザッカリーさんの背中を押す手伝いができたなら、それだけで十分嬉しいです」
「イズミさん……」
 ウェズリーさんは、今度は酷く驚いたようだ。
 言葉に詰まったように静止した後、深く息をついてみせる。
「いい子だなあ。ザックもぼやぼやしてないで、イズミさんと付き合えばいいのに」
「えっ、あの、それは選択の自由がありますから……!」
 私はあたふたと否定した。
 でもあまりにうろえたからだろう。ウェズリーさんは無言のまま、訳知り顔で私を見ていた。

 会話が一段落したちょうどその時、パブのドアが開いた。
 ザッカリーさんが駆け込んできて、店内に視線を巡らせる。すぐにカウンターにいる私に気づき、足早に近づいてきた。
「ごめん、待たせたな」
「本当だよ。駄目だぞ、ザック」
 私より早く、ウェズリーさんが叱るように言った。
 途端にザッカリーさんはお兄さんを睨む。
「ウェズには関係ないだろ」
 その拗ねた口調に、少年時代の面影が残っているような気がしてならなかった。
「今はなくとも、そのうちあるかもしれないだろ」
 ウェズリーさんはそう応じると、まだ反論したそうなザッカリーさんを急かす。
「さ、座る前にご注文を。彼女のグラスも空だしな」
 それで私たちは改めての注文をした。私は二杯目のロンドンアイスティーを、ザッカリーさんはペールエールを頼み、それからシェパーズパイも二つお願いした。
 ウェズリーさんは先に飲み物を作ってくれた後、シェパーズパイを焼く為にカウンターを離れた。
 その際、こう言い残していった。
「話聞いてくれてありがとな。楽しかったよ、アキホさん」
 名前で呼ばれたことに、私よりもザッカリーさんが驚いていたようだ。私の隣に座りながら、焦った様子で尋ねてきた。
「……なんで、ファーストネームを?」
「えっと、流れでそういう話になって……」
 さすがに恋人と間違われたなんて話はしにくくて、そこはぼかした。
 それに、今話すべきことはもっと他にある。

 乾杯の後で、私はザッカリーさんに明かした。
「ウェズリーさんから伺いました。ご兄弟だったんですね」
 そうなることをザッカリーさんは薄々察していたようだ。少し気まずげに応じた。
「黙っててごめん。今夜、俺から言おうと思ってたんだけどな」
「いいえ。言いにくいというお気持ちもわかります」
 私がそう言ったら、たちまち顔を顰めていたけど。
「ウェズめ……全部喋ったな……!」
 どうやら私は全部を教えてもらったようだ。
 かつて兄をめちゃくちゃに怒った少年は、今は大人らしく落ち着き払って語る。
「あいつが店をやるなんて無理だと思ったんだ。家でシェパーズパイを作る時だって、何度もオーブンの電源を入れ忘れてたんだから」
「シェパーズパイは、ご兄弟の思い出の味なんですね」
 思い出話が聞かされた事実と繋がり、腑に落ちる思いがした。
 ザッカリーさんも顎を引く。
「ウェズのシェパーズパイが食べたくて。でも、この店に来るのは気まずかった。子供の頃の話とは言え、散々ごねた後だったからな」
「それで、私を連れてきてくださったんですよね」
 ウェズリーさんが『口実』と言った通り、ザッカリーさんも後ろめたそうな顔をする。
「泉さんをダシにしたようで、悪いと思ってる」
「そんなことは全然、ないです」
「でも君には、すごく大切なことを教えてもらった」
「……私が?」
 聞き返せば、彼は真剣な顔つきになる。
「シェパーズパイを食べる時、俺はいつも幸せだった。ウェズが料理を失敗した時だって笑い飛ばすだけの余裕があった。美味しい食べ物は、誰かと笑って食べる方がいい。泉さんの笑顔で、それを思い出すことができた」
 少年時代を思わせるような、繊細で、だけど強い意思を秘めた表情だった。
「あの夜は柄にもなく緊張してたからな。泉さんの笑顔は、本当に救いだった」
 そして青い目は、ひたむきに私を見ている。
「素敵な笑顔をありがとう」
 それは私が前回酔っ払って、笑ってばかりいたからだろうか。
 あの夜のことを思うと、はしゃぎすぎただろうかって気持ちにもなる。素面の時だったら恥ずかしくて、まともに返事もできなかっただろう。
 だけど今の私はロンドンアイスティーを二杯目だ。
 この間のように、今もすごく気分がよかった。
「そう言ってもらえて嬉しいです、ザッカリーさん」
 酔いに任せて笑いかけてみたら、彼ははっとしたようだ。
 青い目を何度か瞬かせて、それからはにかんでみせる。
「三年も一緒に仕事してるのに、泉さんのこと全然知らなかったな」
「それは私も同じです。ザッカリーさんに、可愛い少年時代があったなんて……」
「あるよ。誰にだってあるだろ」
 苦笑したザッカリーさんが、すぐに言い添える。
「泉さんは、大人でも可愛いけどな」
「えっ」
 直球の誉め言葉は、酔いが回っていても息が止まった。
 私が思わず呆然として、ザッカリーさんが照れ笑いを浮かべた時、
「はーい。シェパーズパイお二つ、お待たせいたしましたー!」
 カウンター席にトレイの影が落ち、ウェズリーさんが威勢のいい声でそう言った。
 途端にザッカリーさんが顔を顰める。
「わざと割り込んだだろ、ウェズ」
「何のこと? 俺は普通にサーブしてるだけだよ」
「いつもはそんなテンションじゃないくせに!」
 そして楽しそうな兄弟喧嘩が始まったものだから、私はつい声を上げて笑ってしまった。
 お二人は本当に仲のいい兄弟みたいだ。

 それから私とザッカリーさんは、今夜も一緒にシェパーズパイを食べる。
 こんがり焼けたチーズと口どけなめらかなマッシュポテト、トマト味が染み込んだラムひき肉がやはり美味しかった。
「前回はああいう理由で誘ったわけだけど」
 熱々のシェパーズパイに顔を赤くしながら、ザッカリーさんは言う。
「今夜は違うから。それは明言しておくよ」
 隣に座る私に、悪戯っぽく笑いかけてくる。
「今夜は、泉さんの笑顔が見たくて誘ったんだ」
 それを聞く私も、きっとシェパーズパイで赤い顔をしていることだろう。
 誘った理由が違うのもわかっている。なかなか確信は持てなかったけど――今なら、少しは勇気を出してみてもいいはずだ。
 真面目な部下でいられない程度にはお酒も回ってきたことだし。
「ザッカリーさんは、クリスマスのご予定ってありますか?」
 カウンターの上に置かれた小さなツリーを見ながら、私は尋ねた。
 するとザッカリーさんは言う。
「不肖の兄が、ハウスパーティをしたいと言ってる。クリスマスと言えば家族で祝うものだったからな」
 カウンターの奥でウェズリーさんが振り返る。
 こっちに向かって器用なウインクを投げてくる。
「シェパーズパイもロンドンアイスティーも、ウェズに言っていくらでも作らせるよ」
 ザッカリーさんが続けた。
「だから泉さんも来ないか、パーティに」
 思いがけないお誘いだったけど、断る理由なんて何一つない。
 私は勢い込んで頷く。
「はい、是非。すごく楽しみです」
「よかった」
 ほっとしたように顔をほころばせたザッカリーさんは、だけどその後で用心深く呟いた。
「当日は、ウェズに君を取られないようにしないとな……。胃袋を掴まれてるのは手強いぞ」

 もちろんそんな心配はなくて、私の心は決まっている。

 三年もの間、ずっとあなたに憧れていたんです。
 二杯目のロンドンアイスティーを飲み干したら、笑顔でそう告げようと思う。
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