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春日井がいなくても

 春日井は僕の友達だ。
 彼女にこの夏、彼氏ができた。

「花火大会、彼と行くから……古内、ごめん!」
 手を合わせて謝られれば許すしかない。僕は苦笑した。
「いいよ。そうなるかなって思ってたし」
「本当ごめん。毎年花火は古内たちと見に行ってたのに……」
 幸せいっぱいの春日井にも後ろめたさはあるようだ。申し訳なさそうに項垂れているから、わざとからかっておく。
「別に裏切ったなんて思ってないよ」
 すると春日井は子猫みたいに素早く顔を上げ、僕を睨んだ。
「そんな言い方しなくてもいいじゃん。私、本気で謝ってるのに」
「うん、わかってる」
 込み上げてくる笑いを隠し切れなくなった僕を見て、春日井はしばらく拗ねていた。でもやがてつられたように一緒になって笑ってくれた。
 僕は春日井のこういうところが好きだ。明るくて、すごく可愛くて、守ってあげたくなる女の子だった。

 春日井と僕は小学校に入学した頃からの仲良しで、もうかれこれ十年の付き合いになる。
 出会いは小一から通い始めたスイミングスクールだ。同じ低学年コースから始めた僕らだったけど、上達は僕の方が早かった。春日井はなかなか進級できなくて、スイミング教室のロビーの隅でよく泣いていた。そんな彼女に僕が声をかけて、ぽつぽつと話すようになって、そこから次第に仲良くなった。二人で通い続けたスイミングスクールは僕らが中学に入ってすぐにつぶれてしまったけど、高校生になった僕らは同じ水泳部に所属して、今もお互いに励ましあい、応援しあっている。
 今年の夏も僕らは一緒に学校のプールへ通い詰めていた。そこへ降って湧いたように現れたのがやはり同じ水泳部の中西だ。夏休みに入って間もなく中西が春日井に告白した。春日井はそれを受け入れ、二人は付き合いだした。僕にとっては寝耳に水の出来事だったけど、僕以外の人たちは声を揃えて『あの二人は付き合うと思ってた』と言っていた。

「花火大会行くなら、やっぱ浴衣の方がいいよね」
 練習の合間に取る休憩中、プールサイドのざらざらした床に座った春日井が言った。もう来週に迫った花火大会のことが頭から離れないみたいだった。
「別におめかしするつもりはないけど、ほら、キャミ着てくと日焼けの跡が気になるし……」
 彼女が競泳用水着の肩紐に親指を差し入れると、よく日焼けした彼女の肌の、透き通るように白い部分が見えた。水泳をやっていれば当たり前につく日焼けの跡を気にするなんて、今までの春日井にはなかったことだ。小さな頃からずっと見てきた彼女が、この夏の間に、急に大人になってしまったようだった。
 僕が膝を抱えて黙っていると、春日井は僕の顔を覗き込んでくる。
「ね、古内はどう思う?」
「その方が中西も喜ぶだろうね」
 僕は思った通りのことを答えた。男というやつはどういうわけか、女の子の浴衣がとてつもなく好きなのだ。
「そ、そっかな」
 春日井は強い日差しの下でもわかるくらい頬を赤らめ、水泳帽からはみ出た一筋の濡れた髪を指先にくるくると巻きつけた。僕が中西の名前を口にすると、彼女は目に見えてもじもじし始める。こんなふうに恥ずかしがる春日井も、僕にとっては初めて見る新鮮な姿だった。
 しばらくその姿を見守っていると、彼女は我に返ったように大きな瞳で瞬きをした。
「ところで、古内はどうするの?」
「何が?」
「だから、花火大会のこと。行くんでしょ?」
「どうかな。気が向いたら行くかもしれない」
 曖昧に答えたのは、はっきり言って行く気がなかったからだ。だけどそれを正直に言えば春日井は気に病むだろう。だから濁した。
「星野にも言ったんだよね。一緒に行けないって、昨日会ったから」
 春日井は僕を見ながら、そこで可愛らしく微笑んだ。
「そしたら星野は『じゃあ古内と二人で行くよ』って言ってたけど。約束したんじゃないの?」
 星野は僕のもう一人の友達で、春日井にとっても大切な、小さな頃からの友達だ。僕らはずっと三人で仲良く過ごしてきて、夏休み中の花火大会も毎年三人で見に行っていた。何年間もずっと一緒だった。ただ今年はそうもいかないだろうと思っていた。
 また寝耳に水だ。星野ともしょっちゅう会っているけど、そんな話はされたことがない。
「いや、約束なんてしてないよ。星野がそう言ってたって?」
 僕はとっさに聞き返した。
「うん。星野は完全に古内と約束済みみたいな口調だったよ」
「何も聞いてない。てっきり星野も行かない気かと思ってた」
「え? 古内、行かないつもりだったの?」
「あ……いや、まあ、そうなるかもなって」
 さっきわざわざ濁したことをうっかり口にしてしまい、僕は慌てた。
 でも春日井は気に病むというより、純粋に怪訝そうな顔をした。
「どうして行かないの? 星野と行けばいいのに」
「どうしてって……盛り上がりそうにないからさ。僕と星野とじゃ」
「なんで? 全然盛り上がらなくないよ、何言ってんの!」
 春日井はころころ笑って、僕の懸念を一蹴した。
 でも僕と星野と二人で花火大会だなんて、どう考えても寒々しい光景だと思う。春日井がいないなら、僕らは花火を見に行かないだろう。

 水泳部の練習が終わると、春日井は中西と一緒に帰ると言った。
「古内も一緒にどう? 中西はいいって言ってるよ」
 春日井は僕も誘ってくれたけど、少し離れたところで彼女を待つ中西は不安そうに僕を見ていた。我が水泳部のエースである中西は顔も性格もいい奴だ。でも当然ながら、彼女と二人の帰り道に邪魔が入るのは嫌みたいだった。だから僕は春日井の申し出をやんわりと断り、一人駆け足で学校を飛び出した。
 追い立てるような蝉時雨の中を全力で駆け抜けると、自宅の前では星野が僕を待っていた。
 星野は同級生の男子の中でもひときわ背が高く、庭に植えた向日葵が日差しを浴びてすくすくと育っても全然追い越せないほどだ。ただ背が高いせいなのか、太陽に向かってまっすぐ伸びる向日葵と比べると猫背が酷い。癖のある髪はいつもうねっていて、僕と春日井がワックスを使えと勧めても一向に聞き入れない。
 走って帰ってきた僕が足を止めると、星野はこちらを向いて、まるで慰めるみたいに笑った。
「お疲れ。今日は一人か?」
「まあね。春日井は中西と帰るって」
 僕は火照った頬に伝う汗を拭い、呼吸を整えながら答える。『今日も』じゃなくて『今日は』と聞いてくるところは星野なりの優しさだろう。ここのところずっと、練習の後は一人で帰ることが多かった。
 星野も僕が一人でいる理由をわかっているようで、春日井のことは尋ねてこなかった。
「上がっていいか? 漫画読みたい」
「どうぞ。僕は洗濯するから、先に部屋行ってて」
 玄関の鍵を開けて星野を家に入れてやると、お邪魔しますと言うよりも早く靴を脱いで、二階へ上がっていった。星野も、それから春日井も、僕の家には我が物顔で上がり込む。もっともそれはお互い様というやつで、僕も星野や春日井の家にはしょっちゅう遊びに行っていたけど――これからはそういう機会もぐっと少なくなるのかもしれない。
 僕は部活で使用した水着やタオルを洗濯機に放り込み、すぐに洗剤とスイッチを入れた。洗濯機が注水を始めたのを確かめてから台所へ行き、二人分の麦茶を用意した。
 麦茶を入れたコップを持って二階の僕の部屋へ行くと、既にエアコンが入って部屋は涼しくなっていた。星野は僕のベッドに寄りかかり、僕の愛読書である『キャプテン』を読んでいる。これが春日井ならベッドの上に乗ってごろごろしながら読んでいるところだ。そして散々読んでおきながら『古内の持ってる漫画ってつまんない』と文句を言うまでがいつものことだった。そういえば近頃の春日井は、僕からすると甘ったるくて可愛いすぎる少女漫画を読むのが好きだった。
「はい、お茶」
 僕がコップを差し出すと、星野は顔を上げてそれを受け取った。
「ありがとう。ちょうど喉乾いてた」
 そして喉を鳴らして麦茶を飲み、一気に残りわずかになったコップを床の上に置く。
 お替わりを入れてきてあげようかと思ったけど、僕も少しくたびれていた。水泳の練習の後は全身がけだるい疲労感に包まれる。僕はベッドの真向かいにある勉強机の椅子を引き、そこに腰かけて麦茶を飲んだ。一息でコップを空にすると、深い溜息が出た。
 こっそりと星野を盗み見る。奴は再び漫画を読み始めている。かなり熱心だ。

 春日井と僕が小一からの付き合いなら、星野と僕は小四からの付き合いだ。春日井家が暮らしているマンションに星野家が引っ越してきて、春日井が星野を遊びに引き入れるようになった。
 正直に言えば、僕は最初、星野のことをあまりよく思っていなかった。当時の星野は慣れない引っ越しのせいでいつもおどおどしていて、つまらない奴だった。もやしみたいにひょろりとしてて色白なところも軟弱そうで嫌だった。でも春日井は放っておくとぼっちまっしぐらの星野を放っておけなかったらしく、いつも遊びに誘っていた。星野もおどおどしながら春日井に引っ張られるがままついてきた。僕も春日井がそうしたいならと受け入れるうち、星野もこの町に慣れ、学校に慣れ、いつの間にかいい友達になっていた。
 今では僕よりも、もちろん春日井よりも背が伸びた星野には、当時の気弱そうなもやしっ子の面影はどこにもない。背が高すぎて未だにひょろりとして見えるものの、顔つきはすっかり大人っぽく、癖のある髪ともあいまって胡散臭いインテリという雰囲気だ。こうして見ると星野も春日井も成長しているというのに、僕だけは昔から変わっていないような気がする。

「疲れてるのに悪いな、押しかけて」
 こちらの視線に気づいたわけではないだろうけど、漫画を読みながら星野が口を開いた。
「どうしても続きが読みたかったんだ。イガラシがキャプテンになるなんて一層燃える展開だからな」
「わかるよ。僕は平気だから、読んでって。麦茶のお替わりいる?」
「いや、まだいい。ありがとう、古内」
 礼を言って、星野はまた漫画に没頭し始める。そこで会話は途切れ、僕の部屋は誰もいないみたいに静かになる。
 夏休みに入り、春日井が中西と付き合うようになってから、星野はほぼ毎日のように僕の家へ遊びに来た。奴なりに寂しがっているであろう僕を慰めたいという気持ちがあるのかもしれないし、奴も奴でかなり寂しがっているのかもしれない。でも皮肉なことに、星野とこうして二人で過ごす度、僕は春日井の存在がどれほど僕らを明るく照らしていたかを実感する羽目になっていた。
 僕は椅子にもたれながら、星野に話しかける機会を窺っていた。星野が漫画に熱中しているから何度かためらったけど、花火大会のことは聞いておかなければいけないと思って、やがて切り出した。
「……春日井から聞いたんだけど、花火大会行く気だって本当?」
 星野が面を上げて僕を見る。意外そうな顔をしている。
「当然行くつもりだった。行きたくないのか?」
「うん。僕は行かないつもりでいたよ」
「なんでまた。毎年一緒に行ってるだろ」
「そうだけど、今年は春日井もいないし、僕らだけで行ってもほら、寒くない?」
「寒いか? 俺は別にそうは思わない」
 星野も春日井と同じように僕の懸念を否定した。
 だけど想像してみればわかるはずだ。ずっとつるんできた春日井に彼氏ができて、デートだからと可愛い浴衣を着た彼女が幸せそうに花火を見ている一方、あぶれた者同士が連れ立ってカップルだらけの花火大会を口数少なにさ迷い歩き、寂しく花火を眺める光景というのはどう考えたって寒い。
「でもさ……」
 僕は椅子の上で膝を抱えた。
 反論しようとしたけど、後に続く言葉が思い浮かばなかった。星野は僕と二人のお寒い花火見物でも構わないらしい。そう言われてしまうと、僕としては断る理由がなくなってしまう。
「気にしすぎだ。寒いなんてどこの誰が思うんだよ」
 星野は軽く笑い飛ばすと、駄目押しのように言った。
「行こう。春日井がいなくても楽しめるって」
「なんでそんなに行きたがるかね」
 逆に僕は疑問を呈した。星野がそこまで花火を見たがるとは意外だった。人混みが好きだというわけでもなく、いつも本ばかり読んでいる奴なのに、今年はいやに能動的だ。
 すると星野は眉を顰め、僕に無言で視線を送ってきた。まるで圧力をかけてくるような鋭い目つきだった。
 あっさり気圧された僕は膝を抱えたまま自分の爪先に目を落とす。近頃の星野は会話の途中で僕を睨むように見てくることがあって、そういう眼差しで見られるのが僕はどうも苦手だった。ここのところずっと抱え込んでいるもやもやした気持ちを見透かされているような気がするのだ。
 気まずく途切れた会話のせいで部屋の中は静かになり、窓の外の蝉の声が聞こえてくるほどだった。春日井がいればこんなに静かになることも、沈黙が長引くこともないのに。
「春日井がいないと駄目か?」
 星野はまだ僕を見ているのかもしれない。漫画のページをめくる音が聞こえない。
 恐る恐る視線を戻せば、やはり星野は僕をじっと、咎めるように注視していた。
「駄目っていうんじゃないけど、ずっと三人で出かけてきたからさ」
 僕は言い訳をするみたいにもごもごと答える。
「彼女がいないと静かって言うか、僕らだけで盛り上がるかなって言うか……」
 それで星野は読んでいた漫画を完全に閉じた。険しい顔つきで口を開く。
「春日井が中西と付き合いだして、お前が寂しがってるのはわかってるよ」
「そ、そんなこと……確かにあるけどさ」
 直球で指摘されて僕は慌てた。それが事実だとして、そんなのはお互い様じゃないか。いちいち言ってこなくてもいいのに星野も酷い奴だ。
「誤解しないで欲しいんだけど、僕はあの二人が付き合ってるのが嫌なわけじゃないから」
「それもわかってる」
 何もかも理解しているというように星野が顎を引く。
 その冷静さがかえって癪に障ったから、こちらも淡々と言い放った。
「春日井には幸せになって欲しいし、ずっと笑ってて欲しいと思ってるよ」
 それは偽らざる僕の本心だ。
 出会った頃からずっと、彼女が笑っているのを見るのが好きだった。彼女が泣いていたら放っておけなかった。だからいつも傍にいて、春日井を守ってきた――つもりだった。
 中西が現れてから、春日井は今まで以上に幸せそうにしている。中西が隣にいなくても、奴の話をするだけで照れたり、笑ったりする。僕の力ではこんなふうにできなかったのだと思うと、今まで僕がしてきたことが滑稽に思えて仕方がなかった。
「でも僕は、星野とさえ会話弾んでないしさ。春日井なしでこうして二人でいると、何か黙っちゃうじゃん。お互い」
 三人でいる時は、いつも春日井が一人ではしゃいでいた。僕はそんな春日井が無茶をしないか見守る役割で、更にその後を星野が何だかんだでついてきた。春日井がいるといつも賑やかで、僕らの間に沈黙が落ちることはなかった。
 でも今、彼女がいないと、僕と星野の会話はいまいち盛り上がらない。沈黙が重苦しく感じられて、居心地もあまりよくない。
「僕が彼女を守らなきゃってずっと思ってたけど、違ったんだ。本当は春日井が僕らを明るくしてくれて、僕らの関係を繋ぎ止めていてくれたんだと思う」
 彼女がいないと僕は丸裸にされたようで、急に心許なくなった。春日井や星野と違って、僕は小さな頃から何にも変わっていなかったのだ。ずっと春日井のナイト気取りだった。それだけが僕の取り柄のようなもので、その役割を解かれてしまった僕に何が残っているのか、自分でもわからない。
「僕は春日井みたいに明るくなれないし、星野だって僕とじゃつまらないだろ? 花火大会に行ってもこんな調子だとさ、何か……気まずいかなって……」
 花火大会は明るいイベントだ。花火は賑やかに見るもので、春日井が花火の光にはしゃいで朗らかに笑い、僕らも一緒になって笑った。そういう思い出を毎年作っていた。
 春日井がいない花火大会は、そうはならないだろう。僕も星野もあまり口を利かず、ぼんやりと花火を見て、そして春日井がいないことを強く意識するに違いない。わざわざ気まずくなりに行くようなものだ。
 不意に、星野が立ち上がったのが気配でわかった。
「つまらなかったら毎日なんて訪ねてこない」
 強い口調に思わず顔を上げると、星野は勉強机の隣にある本棚に向かってゆっくり歩いてきた。そして本棚に『キャプテン』をしまうと、椅子に座ったままの僕に身体ごと向き直る。
「今だから言うけどな、俺はお前がいなかったら、昔、春日井の誘いには乗らなかった」
 星野は何とも反応に困ることを、いやに真剣な面持ちで語った。
「……なんで、僕?」
「なんでだろうな。春日井に引っ張られて初めて古内と顔を合わせた時、めちゃくちゃ睨まれたのに」
 そうだった。僕は星野に初めて会った時、おどおどしてるこいつが気に入らなくて警戒していたんだ。春日井も変な奴を連れてきたなって思っていた。
 今じゃ星野の方が猫背のくせに堂々と、億すことなく僕を見下ろしている。予想外のことを言われて、僕の方がうろたえている。
「もちろん、春日井はいい子だよな。引っ越してきたばかりで友達もいなかった俺に声をかけてくれた。そのことには感謝してる。でも引っ込み思案の俺には、春日井はちょっと賑やかすぎた」
 星野のこういうはっきりとした物言いに昔の面影はない。でも僕はそんな星野のことが嫌いではなかった。
「古内がいたから、俺は春日井とも仲良くなれたんだ。春日井を守ろうとしてるお前が必死で、可愛く見えたからな。現金な話だけど、仲良くなってみたかった」
 可愛い、なんて。春日井のナイトを自認していた僕に、その言葉はぐさりと突き刺さった。結局僕は彼女の、格好いいナイトにはなれていなかったということだろう。
 僕の感傷をよそに、星野は穏やかな、大人びた笑みを浮かべてみせた。
「古内、花火を見に行こう。場を盛り上げようとか、明るくしようとか、そんなこと考えなくていいから」
「そ……そう、かな。でも、つまらなくない?」
「ちっとも。花火なんて好きに見るものだろ、俺たちも好きに見ればいい」
「星野は、黙って見る方が好きなの?」
「相手による。お前とならその方がいい」
 そこまで言うと星野は黙った。
 僕も黙っているしかなく、しばらくの間、涼しい部屋の中で蝉時雨を聞いていた。やがて洗濯の終了を知らせる音が階下から響いてきたけど、僕はずっと動けなかった。

 それから数日が過ぎた花火大会の夜、星野とは僕の家の前で待ち合わせをした。
 暮れなずむ夏の空の下、星野は庭の向日葵の前で突っ立っていた。いつもは猫背気味の星野だけど、今夜は少しだけ背筋を伸ばしているように見える。癖のある髪にはなんとワックスをつけているようだ。どういう心境の変化だろう。
 もっとも、心境の変化は僕も他人ごとではない。玄関を出た僕は深呼吸をしてから、星野に歩み寄った。
「星野、お待たせ」
 声をかけると奴はすぐに振り向いたけど、僕を見て驚きに目を瞠った。
「浴衣着たのか、古内」
「うん、一応」
 僕は頷いた。傍目には俯いたようにしか見えなかっただろう。
「春日井が言ってたんだけど、水着の跡がついてるからキャミとか恥ずかしくて着られないって。だから僕も浴衣にした」
 でもそれは多分、言い訳みたいなものだ。
 本当は一緒に行く人に喜んでもらえて、誉めてもらえるってわかっているから浴衣を着ることにした。男というやつはどういうわけか、女の子の浴衣がとてつもなく好きなのだ。僕には他の服とどう違うのかいまいちぴんと来ないけど、それこそ花火大会の時でもないとしない服装だからいいのかもしれない。
「よく似合ってる。毎年着ればいいのに」
 星野がそう言ってくれたので、僕は熱くなった頬に伝う汗を拭った。十年ぶりに着た浴衣は思ったより涼しくなくて、さっきから顔が火照りっぱなしだ。
「ありがとう、星野。これで少しは女の子っぽく見えるかな」
「元から見えてる。少なくとも俺には、出会った頃から」
 きっぱりと言い切った星野は、その後でわざわざ俯く僕の顔を覗き込んできた。そして笑った。
「でも今日の古内は一段ときれいだ。大人っぽく見える」
「ほ、誉めすぎだよ……あんまり言われると僕、本当に喋れなくなっちゃうから……」
「無理に話さなくていい。黙って花火を見るのも、お前とならきっと楽しいよ」

 星野が言った通り、僕らは静かに花火を見て、そしてその時間を大いに楽しんだ。
 もっとも僕らもずっと黙りっぱなしだったわけではなくて、いくつか真剣な、そして大切な話をした。僕はそれを春日井にどう話そうか悩んでいる。言わないつもりはないけど、照れずに言う自信がまるでない。
 春日井がいなくても花火を見に行ったよ。
 そう打ち明けたら春日井はころころ笑って、やっぱりね、って言いそうな気がする。

お題:汗を拭う、蝉時雨を聞く、向日葵、麦茶
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