5 しょうがないじゃない! 好きなんだから!

 バイト先のドラッグストアは夜九時まで営業している。
 九時に店を閉めて、売上を精算して、お金を金庫にしまう。それからタイムカードを押して、ロッカールームに戻って着替えをすると、店を出る頃には九時半を過ぎている。当然、外は真っ暗だ。
 既に照明の落ちた店の前に立っても、自動ドアは開かない。私はぼんやり突っ立ったまま、がらんとした駐車場を眺めていた。消えかかった白線とひびの入ったアスファルトが街灯の光で浮かび上がっている。
 秋の終わりは肌寒くて、手が悴みそうだった。コートの袖に手を隠していても、吹き込んで来る風は冷たい。
 自転車で通うバイト仲間の一人が、帰り際に声をかけてきた。
「あれ、隅田ちゃん帰んないの?」
「うん」
 私は曖昧に笑って、手にしていた携帯電話のストラップを鳴らした。
「今日はね、お母さんが迎えに来るの」
「そうなの?」
「うん。買い物のついでに来るんだって」
 バイト仲間の子は私をじっと見て、片眉を上げてみせた。
「そんなこと言って、本当は彼氏が迎えに来るんじゃないの?」
「違うよ」
 あっさりと否定しておく。
 だって本当に違うから。彼氏は迎えに来てくれない。バイトを終えて後は家に帰るだけの私のところになんか来るはずがない。
 かと言って、お母さんが迎えに来るっていうのも嘘なんだけど。
「まあいいや、明日もシフト入ってたっけ?」
「ううん、明日は休みだよ」
「いいなあ。あたしなんて五連荘だよ。最悪。ゆっくり休んでねー」
「ありがと。お疲れー」
「お疲れー。彼氏によろしくね」
 にやっとした彼女は、自転車を漕ぎながら去っていった。空っぽの駐車場を照らす細い光の筋がだんだんと遠ざかり、そして道を曲がると見えなくなる。
 彼氏なんて来ないって言ってるのに。私はコートの袖から手を出して、携帯電話の画面を見つめる。
 メールはなし。着信もなし。
 ひとりきりになった駐車場は静かすぎて、営業時間中とはまるで様変わりした物寂しさに震えが来る。冴え冴えとする月明かりに照らされても、この光景は綺麗だと思えない。アスファルトがいくらきらきらと輝いてみせたところで、美しくなんかない。
 バイトが終わったら真っ直ぐ帰ってくるように、お母さんには言われていた。だけどそんな気分にはなれなくて、私は駐車場から動けずにいる。
 駐車場の一番端に見慣れた車がある。グレーのボックスカーで、ライトは点いていない。車の持ち主はここにはいない。
 私はその助手席に乗ったことがあった。何度も乗せてもらっていた。後部座席はいつも配達の荷物やら書類やら販促のおまけやら化粧品のサンプルやらで溢れていて、砂利道を走る度に音を立てるから、気になってしょうがなかった。運転手さんは――トモは、これっぽっちも気にならないって笑っていたけど。
 トモは、ここにはいない。
 私はコートのポケットに手を突っ込んで、トモの車を見つめていた。
 だけど身動ぎもしないものを眺めているのにも飽きて、ここの寒さにも耐え切れずに、やがて衝動的に踵を返した。

 従業員通用口は、店長が帰るまで開きっ放しだ。無用心なことこの上ないと思うけど、彼は私の不安を笑うばかりだった。警報機がついてるから大丈夫だって言ったって、警備会社の人が来るまでに何かあったらどうするんだろう。
 私は中に入った。タイムカードの列の隣でランプと現在の時刻が明滅していたけれど、意に介せずに踏み込んだ。
 真っ直ぐに売場へと向かう。
 暖房も切られ、照明も一部分しか点けられていない売場は、駐車場と同様に物寂しい雰囲気だった。有線放送も切られてしまって、私のブーツの足音だけが響く。
 だからだろう、声をかける前に、売場に残っていた白衣姿の店長が振り返った。
「……あれ、どしたの」
 明日の特売品を売場に積もうとしていたようだ。台車の上にはまだ梱包を解かれていない品がある。
「ううん」
 私は、かぶりを振った。どうしたってわけでもなかった。
「ごめんね、今日送ってあげられなくて」
 カッターを取り出した店長が、慣れた手付きで梱包を解き始める。明日のチラシの目玉商品、ボックスティッシュ五個パックが百九十八円だ。
「どうしてもこれ、品出ししとかないと開店に間に合いそうになくってさ」
 作業をしながらの声は明るく聞こえた。私はかぶりを振るしかない。
「ううん、気にしてない」
「ありがと。何とか日付変わる前に終えたいけどね」
 店長の口調はいたって軽い。どれだけ仕事が残っているかなんて匂わせもしない。アルバイト店員が全く気づけないほど、隠し事が上手いわけじゃないのに。
 知ってるんだ。店長の仕事が今、すごく大変だってこと。お店の品出しもそうだけど、会議も入ってるし、棚卸しも近いし、提出しなきゃいけない書類もたくさんあるんだって。
 だからわがままなんて言えない。言っちゃいけない。
 大体、いつも送ってもらってるってわけじゃない。今日だって雲一つない月夜だし、冷え込んでいるけどコート着てるし、送ってもらう理由なんてなかった。
 私がブーツの爪先に視線を落とすと、カッターが梱包を断ち切る音がふと止んだ。
「ごめんね、ちーちゃん」
 代わりに静まり返った店内で、本当に申し訳なさそうなトモの声が響いて、何だか切ない気分になった。
 トモが作業の手を止めると、辺りは嫌な静けさに満ちる。
 何しに来たんだろう。私、帰らなくちゃいけないのに。
 もうすぐ十時になる。お母さんが心配するから帰らなきゃ。ひとりで。トモのことは気になるけど、私がここに留まったところでどうなるわけでもない。手伝うなんて言ってもやんわり断られるだけだ。仕事が終わるのを待つこともできない。ましてや、一緒に帰るなんてことにもならない。今日は駄目なんだ。
 なのに私、何しにここへ戻って来たんだろう。
「ちーちゃん?」
 トモが私を呼んだ。
 指を握ろうとすると、悴んでいたせいでぎこちなく軋んだ。力なく下がる私の手は何も掴めない。
「何でもない」
 私はようやく応じて、乾いた声を立てた。
「何でもないけど……」
 けど。
 戻って来ちゃったんだ。
 込み上げてきたのは訳のわからない苛立ちだけで、直後にトモが軽く笑ってみせたから、私は弾かれたように顔を上げた。
「どうして笑うの?」
「いや、心配してくれてるんだな、と思って。様子見に来てくれたんでしょ?」
 軽く微笑んだトモが、カッターの刃を引っ込めた。
「大丈夫だよ。ちゃんとご飯も食べるし、睡眠時間も取るから。ちーちゃんが思うほど俺、若くない訳じゃないよ。三時間も寝れば平気だからさ、心配しないで」
 カッターは白衣のポケットにしまわれる。
 そしてトモはゆっくりと腕を伸ばして、私の肩に触れてきた。
「ありがとう。頑張るよ」
 仕種も声も、とても優しい。
 優しいからこそ私は切なさと、原因不明の苛立ちにさいなまれる。
 違う、違うよ。トモは優しいけど、私はそんなんじゃないんだ。トモのことを心配するふりをして、本当は自分のことしか考えてない。今だって、トモの仕事や身体のことを気遣う心なんてほんのちょっとしかなかった。こうして戻って来たのは私がそうしたかったから、それだけだ。
 単に、トモと会いたかった。話したかった。こういう風に触れて欲しかった。それだけなんだ。
 無性に泣きたい気分になったけどそれはどうにか堪えて、私は口を開いた。
「ごめん」
 そう言って俯くと、トモの手が戸惑いを見せた。
「何のこと?」
「ごめん、仕事の邪魔して」
 戻ってきてしまったこと自体、今のこの瞬間も全てがトモの仕事の邪魔になってる。もしかすると私そのものがそうなのかもしれない。
 それなのに、気持ちが抑え切れない。
「邪魔じゃないよ」
 トモは優しい。私をいつも気遣ってくれる。同じだけの気持ちで、私もトモをもっと気遣えたらいいのに、いつも自分のことばかり考えてしまう。そんな自分に気づくと苛立ちが募って、立ちはだかる年齢の差に切なくもなる。
「辛い時にちーちゃんがいてくれるとうれしいんだ」
 肩の上を滑り降りてくる大きな手が、私の手を掴まえた。しっかりと包み込んでくれた。温かい。
「手、冷たいね」
「うん」
 頷いた瞬間、抑え込もうとしていた気持ちはかさを増して、すぐにこう告げていた。
「だから、温めて欲しかったの」
 ずるい奴だ、私。そう言えばトモが抱き締めてくれるってわかっているんだから。最初からその為にここに戻ってきたんだ。自分のことだけ考えて、トモのことなんかこれっぽっちも考えないで。
 トモは優しいから、望み通りに私を抱き締めてくれた。ぎゅっと強く、温かく。
「ほっぺたも冷たい」
「そうだよ。ずっと外にいたから」
「外に? もしかして、皆が帰るまで待ってた」
「うん」
 正直に頷くと、トモは堪え切れないと言った様子で笑った。吐息が耳たぶにかかってくすぐったい。
「そっかあ。ありがとう」
「……何で?」
 ありがとう、なんて言われる理由もないのに。白衣の背中を掴みながら、私は問い返してその答えを待つ。
 トモは私の背中をそっと撫でる。
「だって嬉しいじゃない。彼女が、そこまでして会いに来てくれたらさ」
「そうかな」
「俺は嬉しいよ。だって、ちーちゃんの為に頑張ってるんだから。頑張ってるとこ見ててくれたら、それだけで嬉しいんだ」
「でも、邪魔じゃない?」
「邪魔じゃない、って言って欲しい?」
 逆に聞き返されてどきっとする。
 恐る恐る視線を上げれば、ちょうどトモが私の顔を覗き込んだところだった。
 笑ってる。
「邪魔じゃないよ。ちっとも。何を気兼ねしてんの、こうやってふたりきりでいられる機会なんて滅多にないのに」
 本当にそうだ。
 私も笑った。上手く笑えたかどうかは置いといて。
「そうだね」
「むしろ忙しい彼氏でごめん。この仕事の山越えたら、また部屋においで」
「じゃあ、またご飯作る。次はお肉料理も用意するから」
「本当? 俺、ちーちゃんのご飯を励みに頑張るよ」
 トモが頬にキスしてくれた時、ちくりと痛かった。その優しさはうれしかったけれど、どこかに、まだ苛立ちと切なさが残っている。
 やっぱり十七歳も離れてたら違うよね。気の持ち方。想い方。
 私ももっとトモみたいに、優しくて温かくだけいられたらいいのにな。わがままばかり言うんじゃなくて、もっと、支えていられるように。トモと私の関係を秘密にしてなきゃいけない時間はもう少し続くんだから。
 彼が私を抱き締める腕を捻って、時計を見たようだ。
「ちーちゃんは、時間大丈夫?」
 私は時計は見ずに答えた。
「あと五分。五分だけ」
 5分経ったら私はちょっとだけ大人になって、真っ直ぐ家に帰るよ。だからあと五分間だけ、子供っぽいままでいさせて欲しい。
「甘えん坊さんだなあ」
 そう言って、トモは私を抱き締めたまま笑った。
 だけどしょうがないじゃない、好きなんだから。