3 どうして私ばかりドキドキしなきゃいけないの!?

 約二週間ぶりに行ったトモの部屋で、私は手料理を振る舞った。
 前に言われていた通り、卵焼きだけじゃなく、ちゃんとご飯を炊いて味噌汁を作って、サラダまで添えて出してあげた。
 お昼ご飯にしては落ち着きすぎのメニューかなと思ったけれど、トモは文句を言うどころか、いたく感激した様子だった。
「うわー、ひっさびさの手料理だ……!」
 何せしばらく手もつけずにテーブルの上を眺めていたから、頑張ってみて良かったなと思う。
「ちーちゃんありがとう。いただきまーす」
 両手を合わせて頭を下げたトモが、箸を手に熱心に食事を始めたのを見て、私も自分の箸に手を伸ばす。
 卵焼きを一口食べて、焼き加減と味を確かめる。作っている最中に散々確かめていたから大丈夫とは思うけど――うん、ふんわりできてる。よかった。
 トモも卵焼きを食べている。真剣な顔で一切れ、二切れとご飯と一緒に。そのペースはいつもより速い。黙々と箸を進めている。
 私は少しの間、黙って待っていたけど、トモは何も言わないままひたすらに食事を続けていた。
 静かな食卓だった。箸の上げ下げの音まで聞こえるような、沈黙の時間が続く。
 味、どうなのかな。
 トモは何も言わない。食べ続けてくれているから、お気に召さなかったってことではないのだろうと思いたいけど、彼女の手料理だからと無理をしている可能性だって、あるだろうし。
 むしろ、美味しかったら何か言ってくれるんじゃない、普通。
 何も言わないってことは、気に入らなかったのかな。
 それならそうと言ってくれれば良いのに。トモなら思っても言わなさそうだけど。でも、今後の為にも何か問題があるなら言って欲しい。それこそ、彼女相手なんだから率直に意見した方がいいじゃない?
 口に合わないとか、美味しくないならそう言って欲しい。
「お替わり」
 空っぽになった茶碗を真っ直ぐ差し出された時、私は遂に痺れを切らして尋ねた。
「味、どうかな」
「ん? 美味いよ」
 トモはさらりと、事もなげに言った。
 あんまりあっさりとした口調に、拍子抜けする。
「美味しい? 本当?」
「嘘なんかつきませんって。最高です」
「だって、ずっと黙ってるから。何か問題でもあったのかと思った」
 私はほっとしながらも、拗ねたい気分になって早口で言い返した。
 炊飯器を開けて、ご飯を茶碗に盛る。湯気越しに、目の端でちらと見たトモは優しく微笑んでいた。
「いや、美味しいから喋る時間も惜しくてさ」
「本当かな。何か、言い訳っぽく聞こえる」
「疑り深いなあ、ちーちゃんは。本気で美味しいから心配しないの」
 茶碗を手渡すと、トモは両手で受け取って深々と頭を下げた。
「美味しいご飯をありがとうございます」
「……もう、誉めすぎだよ。何も出ないからね」
 誉められたら誉められたで素直に応じられない私は、子供っぽいなと自分で思った。
 本当はすごく嬉しいくせに。トモに喜んで貰えて、どきどきしているくせに。
「だけどびっくりしたな」
 トモは卵焼きを全部平らげてから、切り出した、
「卵焼き、甘くないんだ、ちーちゃんのは」
「え? 甘い方がよかった?」
 今度は違う意味でどきっとする。
 うちの卵焼きは甘くない。お母さんがそうやって作るから、私もそれで覚えてしまっていた。学校の調理実習の時は、同じ班になった子たちが甘い派と甘くない派で半々だったから、結局両方作ったんだっけ。
 そうか、そうだよね。そういうこともあったんだし、トモにも確かめておけばよかった。家庭によって味つけも全然違うんだしね。
「いや、これも美味いけど」
 そう言いながら、トモは首を竦める。
「甘くない卵焼きを食べる機会が今までなかったからさ、ちょっとびっくりした」
「口に合わなかった?」
「そんなことないってば。美味しいよ。甘くない卵焼き派に宗派替えしてもいい」
 不安な私を宥めるみたいにおどけた言葉が温かい。
 思わずちょっと笑い出しつつ、私も応じた。
「調理実習でも話題になったんだよね、卵焼きの宗派」
「へー。どっちが主流だった?」
「うちの班は甘い派が多かったよ。でもね、家のと違うから気に入らない! って子もいた」
「そんな奴もいたのか。全く贅沢者だなぁ。ちーちゃんの手料理を俺より先に食べておきながら」
 いつの間にやら二杯目のご飯も消えていて、サラダも食べ終え、味噌汁を啜ったトモがやがて大きく息を吐いた。
「家によっちゃまるで味が違うからな、卵焼きって」
 ことん、と静かに置かれたお椀がすっかり空なのを見下ろして、私はそっと聞いてみた。
「次作る時は、甘いのにしようか」
「え、いいよ。甘くないので」
 トモはかぶりを振ったけど、その言葉をそのまま受け取っていいものか。
 だって、せっかく久々の手料理だ。私が作ってあげないと、トモはこんなふうに温かい手作りご飯を食べることなんて滅多にない。いつもは外食か、コンビニ弁当か、レトルト食品なんだから。できることならトモの希望に最大限添うようにしたい。
「注文あるなら言って。次からそうするから」
 私も箸を置いて、身を乗り出す。
 目の前でトモの顔が苦笑するのを見た。
「だからね、ちーちゃん。今日のご飯で問題ないんだってば。強いて言うならお肉が欲しかったな、ってくらいで」
 お肉か。確かに。言われて見ればこの献立にはメインディッシュがなかった。お肉料理ね。覚えておこ。
 それはともかく、
「卵焼きはいいの? 甘くなくて」
 卵焼きの宗派については、要検討だと思う。トモが遠慮しているかもしれないから。多分、甘いのを作るのはそんなに難しくない。ちょっとネットで検索すればメニューも出てくる……かな?
 私の思案をよそに、トモは首を縦に振らない。
「いいよ。美味しかった」
「でも」
「本当だよ。美味しかった」
 重ねられる言葉が念を押す。
 尚も食い下がろうとした私に、まるで諭すような言葉が降ってきた。
「それにさ、ちーちゃんの味にも慣れ親しんでおきたいんだ。それこそ今後の為にも」
 小さなテーブルの向こう端で、満足気に微笑んでいるトモ。
 休日らしく伸びかけた顎ひげと、白衣じゃないごくラフな普段着姿が、この時間の特別さを物語る。
 今後の為に。――また食べたいって思ってくれたんだ。
 なら、いいかな。それだけで。そう思ってもらいたくて作ったんだから。
「……じゃあ、また作ってもいい?」
 尋ねると、返って来たのは満面の笑顔。
「もちろん。いや、是非お願いします」
「かしこまりました」
 私も笑顔を返す。にんまりと笑い合う。
 視線を真っ直ぐに交わした後で、トモは不意に片目を瞑ってみせた。
「そのうち、毎日作ってもらいたいな」
「毎日? それは無理だよ」
 卵焼き以外はそんなに得意じゃない。すぐにレパートリーが一巡しちゃいそうだもん。それに、毎日なんて通えないし。トモのお仕事が終わってからじゃ、門限に引っかかっちゃうし――。
「だけど、結婚したらそうなるでしょ」
「うん……――え?」
 私は、思わず顔を上げた。
 勢いよく上方転回した視界の中、悪戯っぽい表情が妙に似合うトモが、こちらを見つめている。
「違う?」
 尋ねられて、言葉に詰まる。
 そうだけど……ううん、そうだ。結婚したらそうなるんだ。そんなこと、今まで考えもしなかったけど。
 結婚。
 トモと? それはもちろん、大好きな人だから、結婚出来たらうれしいけど。トモ以外の人とは嫌だと思ってたけど――こう、目の前に事実として現れると戸惑ってしまう。だって私はまだ十七だし、結婚なんてできなくはないけど早すぎる。
 でも、トモは当たり前みたいに言った。さらりとその言葉を口にした。トモぐらいの年齢だったら結婚なんて別に尚早でも縁遠いものでもないのかもしれない。そういうことも、ちゃんと考えてるんだ。
「結婚……したい?」
 私は、早鐘を打つ動機の下で恐る恐る尋ねた。そのフレーズを声に出すのに、何だか酷く動揺した。
「もちろん」
 トモは深く頷く。
「そうじゃなきゃ、付き合ったりしないよ。無責任になっちゃう」
 そうかな、そうなのかな。意外と古風な考え方だな、と思いながらも、私は視線をテーブルの上に落とした。今のこの関係を、真面目に捉えていてくれる彼の気持ちがうれしかった。
「ちーちゃんは、嫌だった? いや、そりゃあ、今すぐって話じゃないよ。ないけど、将来的には……って思ってなかった?」
 尋ねられて、私は大急ぎでかぶりを振る。そんなことないです。嫌じゃないです。
 おずおずと見たトモの顔は、テーブルを挟んでいるのにとても近い。至近距離にあった。
「でも……」
「何?」
「今のって、プロポーズじゃ、ないよね?」
 私の問いに、トモはきょとんとした後、ふっと破顔して、
「どうだろう。好きなように思ってくれて良いよ」
 右の頬っぺたに柔らかくキスしてくれた。
「ごちそうさま、ちーちゃん」
「はい、あの、……お粗末様でした」
 目の前の余裕の笑顔が憎らしい。
 私だけこんなにどきどきしてるなんて、ずるいよ、トモ。