悪いこと、しよう。
そう言って彼とキスをした。
唇が離れた後、深く息を吐くほかなかった。
キスってこんなに苦しくて、呼吸が続かないものなんだ。
そうだ、確かに、どこで息継ぎするんだかわからない。初めてだから、全くわからない。
ふと視線を上げれば、ちょうど彼も呼吸を継ぎ終えたところで、暗がりに浮かぶ苦しげな顔を見つけた時はほっとした。
ちょっと笑った。
「笑うなよ」
彼の咎める声が、がらんとした教室に響く。
「ごめん」
私は慌てて噛み殺そうとしたけれど、なかなか抑えようがなかった。唇に残る熱と同じくらい、抑え切れない。
むっとする彼の顔は星明かりの下で青白い。
その後で表情を解いて見せても、やっぱり青白く浮かんでいた。
「ムードも何もあったもんじゃないな」
苦笑いしながら彼は、教室の床に視線を落とした。
タイル張りの床はぴかぴかだ。埃ひとつ落ちていない。毎日、私たちが掃除しているから。
整列した古びた机、そのうちのひとつの上で、私は足をぶらぶらさせている。
「ムードなんて今更じゃん」
付き合ってる訳でもない私たちの間に、ロマンチックな時間なんてあり得ない。唇を重ねたって、私たちは友達のままだ。それはこれからもずっと変わらない。もしかすると、永久に変わらない。
「それでも」
と彼は低くぼやいた。
「最後くらいはって普通、思うだろ」
その単語は、割とさらりと言ってくれたと思う。
「そだね」
頷いて私は教室の戸口を見遣る。
「最後だね」
開きっ放しのドアの向こう、廊下を通る人は誰もいない。学校全体がしんと静まり返っている。
夜の教室に忍び込んで、机に腰掛けて、付き合ってもいないクラスの男の子とキスした。
全部良くない、悪いこと。
誰かに見つかったら叱られるだろうけど、そんなことはもうどうだっていいんだ。
磨かれた窓ガラスの向こう、星明かりは綺麗だった。滲むように光り、瞬く。
「お別れだね」
私も彼みたいにさらりと言おうと思った。出来るだけ軽く言おうとした。だけどそれは冷たい空気に溶け切ることなく、教室の中で澱んだ。
「ああ」
彼が顎を引く。短い声が響く。
「私と離れるの、寂しいでしょ」
「そっちこそ。明日、泣くなよ」
「泣かないよ。馬鹿じゃないの」
「どうだかな」
言い合って、お互いに少し笑う。いつもみたいな馬鹿笑いじゃなく、ひっそり声を潜めた。
それから彼は手を伸ばし、机の上に腰掛けた私の頬に触れる。
「静かだ」
私は目で頷いた。彼の手が離れないように。
「そうだね」
笑みが消える。その瞬間にぞくりとする。怖いような、不安なような、それでいて酷くいとおしいような複雑な気分でいる。
「世界が滅びる時ってさ、案外こんなものかもな」
真顔になった彼の、突拍子もない表現を、
「は? 何言ってんの」
私は鼻で笑い飛ばすのに、少しの労力を必要とした。
こんな時にいきなり妙なこと言う。それこそムードも何もあったもんじゃない。
世界は滅びたりしない、今のところそんな予兆もないし、隕石が降って来るなんて映画みたいな話も聞かない。この国は平和だし、この町も平和だし、この学校も割と平和だ。
星が綺麗な、静かな夜。
あとちょっとすれば日付が変わって、そして必ず朝が来る。
明日も彼はこの学校に来て、この教室の自分の席に着いて授業を受けるんだ。明日も明後日も、土日を挟んで来週の月曜日からもずうっと。ずうっと。
「ごめん、急にそんな気がした」
彼は言って、小さくかぶりを振った。星明かりの中でその表情は良くわかる。厄介なことに、感情の微かな揺らぎまで詳細にわかってしまう。
知りたくないのに。
私は目を伏せた。
「世界が滅びるよりはずっとマシだよ。ひとり、クラスメイトが転校していなくなるだけじゃん」
そう、たったそれだけのこと。何が変わるって訳でもない。机がひとつぽっかり空いてしまうだけのこと。それ以外は何も変わらない。
「私は慣れてるから。まあ、次の学校でもせいぜい上手くやるつもり。そんなに心配しなくてていいよ」
心配なんかしてない。するはずない。
そんないつも通りの台詞を期待して、私は告げたつもりだった。
だけど彼はそうは言わず、もう一度かぶりを振ろうとしたので、
「もう一回、しよう。悪いこと」
今度は私から、唇を重ねてあげた。
私がいなくなっても、彼の日常はあまり変わらないだろう。
最初のうちは寂しいって思ってくれるかもしれないけど、それも少しの間だけ。わかってるんだ。私、慣れてるから。
だから、最後に悪いことしよう。
誰にも言えずに封印しておきたくなるような、忘れたくなるような、そのうち本当に忘れてしまうような思い出をあげる。
「手紙、書くから」
「またガラにもないこと言って」
「じゃあ、たくさんメールする」
「いいよ、気を遣わなくても」
笑おうとしたはずの私がどうしてか泣きそうになってしまったのは、きっと慣れてないからだ。
悪いことに。――本当の気持ちを塗り固めた、嘘だらけの言葉とキスに。