夜明けの空のその向こうまで

 ニネットがぼくの部屋を訪ねてくるのは、決まって夜半過ぎ頃だった。その頃になるとぼくは身を起こし、そっと寝台から下りておく。マッチを擦ってテーブルの上に、蝋燭の明かりを点す。それから椅子に腰掛けて、静かに彼女がやってくるのを待つ。
 ニネットは足音も立てずに現れる。ぼくの前に姿を見せると、心から嬉しそうな顔をする。幼いニネットの笑みは無邪気だ。そしてとても愛らしい。
「お兄ちゃん、お邪魔します」
 白いドレスの裾を抓んで、ニネットはお辞儀をする。
 椅子に腰掛けるぼくは肯いて、血の繋がらない妹を迎える。
「おいで、ニネット」
 ぼくらは毎夜、こうして会っていた。ふたりだけの時をぼくの部屋で過ごしていた。それは甘美で、だけど誰にも秘密の時間だった。

 ぼくとニネットは本当の兄妹ではない。ぼくの父は先日、二度目の婚姻をした。父の妻となった、ソフィーさんという婦人には娘がいた。それがニネットだ。実を言えばぼくは新しい家族を迎える当日まで、ニネットの事をまるで知らなかった。父もソフィーさんも何も教えてくれなかったのだ。
 初めてニネットと顔を合わせた時、ぼくは酷く驚いた。情けないくらいに動揺し、恐れ戦いてしまった。ニネットの姿を見た瞬間、奇妙に背筋がぞくぞくした。
「初めまして。あなた、わたしのお兄ちゃんになるのね」
 そんな挨拶の後でニネットは笑った。
 ニネットは透き通った白い肌をしている。ふわふわした鳶色の巻き毛と、零れ落ちそうな青い瞳は彼女の母親に良く似ていた。笑うととても愛らしく、九つの娘らしい無邪気さを隠さない。歳の離れた妹に、ぼくはすっかり気圧されてしまった。
 ソフィーさんもそれはそれは綺麗な人だ。足は不自由だけれど、気立てが良く、器量良しで身持ちも固いと評判だった。ぼくはソフィーさんが嫌いではなかったけども、どう接して良いのか分からないと思っていた。父の妻となった人を、母と呼ぶべきなのだろうか。長らく母のいなかったぼくに、それは難しい事だった。ソフィーさんもぼくの存在には頭を悩ませているようだ。一緒に暮らし始めてからというもの、ぼくは腫れ物に触るように扱われていた。優しいのにどこかよそよそしい扱いをされていた。疎まれているとぼくには分かっていた。
 だけどニネットは違う。恐ろしいほどの速さでぼくの中に溶け込んだ。ぼくの心に寄り添って、あっという間にぼくの妹になった。血の繋がりはなくとももはや、彼女はぼくの妹だ。毎夜のようにぼくの部屋で会い、他愛もない話をする。そうやって夜明けを迎えるぼくとニネットは、誰にも疑いようない、本当の兄妹に見えるだろう。誰にも見せる事はできないけれど。

 蝋燭の炎が揺れる部屋。光と闇のはざまで、ぼくとニネットは話をする。父さんやソフィーさんや使用人たち、この家にいる誰にも聞かれないように、ひっそり言葉を交わし続ける。話すのは他愛ない外でのできごとや、読んだ本の話、或いはぼくの知っている限りのくだらない、どうでも良いような冗談だ。専らぼくの方がたくさん話し、ニネットはそれを無邪気に聞いていた。どんな話をしても面白がってくれる、素直で利発な娘だった。
 ニネットもたまに話をしてくれた。彼女が話すのはソフィーさんの事ばかりだ。ニネットにとっては大好きなお母さんなのだろう。ソフィーさんについて話す時、ニネットの表情は明るくいきいきとしていた。今もそうだ。
「お母さん、最近、とても幸せそう」
 そう言ったニネットもまた幸せそうに見えた。
「きっとあなたのお父さんが大切にしてくれるからよ。だってずっとひとりのままで、寂しかったに違いないんだもの」
「でも、きみだっていたじゃないか」
 何となく面白くなくて、ぼくはつんと言葉を返す。
 するとニネットは頭を振って、寂しそうに窓を見遣った。
「だめなのよ。お母さんはわたしじゃだめだったの」
 返事はせず、蝋燭の炎越しに、ぼくも窓の外を見る。向こうの空はまだ真夜中の色だ。あれが白み始めたら、ニネットはぼくの部屋から去ってしまう。夜明けの空がぼくらに、甘美な秘密の終わりを知らせる役目。ふたりだけの夜がずっとずうっと続けば良いのに、いつもそうはならず、夜明けの時は来てしまう。必ず訪れる。
 ニネットも同じだ。必ず毎夜、ぼくの部屋を訪れる。だから離れている時間は短い。短いはずなのだけれど、ぼくはもうその間さえ耐えられなくなっている。ニネットを待つ間は眠れない。蝋燭の減りが早い事を使用人に訝しがられても、ぼくは毎夜彼女を待つ。
 愛しい妹、ニネット。きみと一緒に居たいんだ。ずっと、ずうっと一緒に。

「ねえ、お兄ちゃん」
 ふと、ニネットが言った。甘い呼び声。
 目を戻せば妹は、鳶色の巻き毛を揺らして、可愛らしく小首を傾げていた。
「なんだい、ニネット」
 ぼくは訊き返し、妹の言葉を待つ。
「お兄ちゃんはお母さんの事、お母さんって呼ばないの?」
 ニネットが継いだのは意外な言葉だった。無邪気な目がぼくを見る。怪訝そうな顔をして、彼女はぼくにそう問うた。
「呼べないよ」
 正直に答えたぼくを、やはり不思議だと言いたげに見つめている。
「どうして? だってお母さんは、今はお兄ちゃんのお母さんでもあるでしょう」
「確かにそうだけどね」
 ぼくは溜息を吐いた。
 眉根を寄せるニネットに、できる限り優しい声で打ち明ける。
「ぼくは、邪魔者なんだよ。父さんとソフィーさんは、ぼくにいなくなって欲しいって思っているんだ。口にはしないけど、絶対に言わないけど本当はそう思っているんだ。そんなぼくが、お母さんなんて呼んだら、ソフィーさんだってびっくりするよ」
「まあ、そんな事」
 ニネットは口元に手を当てた。すぐにしかめっ面を作り、ぼくに向かって言ってくる。
「お母さんはそんな事思う人じゃないわ。お兄ちゃんの勘違いよきっと」
「そうだったら良いけど、そうでもない。父さんもソフィーさんも、ぼくを病院に入れようとしている」
 昨日、お医者へ行こうと父さんに言われた。ぼくを厄介払いするつもりなんだ。ぼくがニネットの事を考えて眠れていないだけなのを、まるで病気だと思っている。病気であって欲しいと思っているのかもしれない。そうすればぼくを病院に閉じ込めておけるから。
「まあ! ほんとうなの、お兄ちゃん?」
 今度こそニネットは、哀しげに目を瞠った。青い瞳が零れ落ちそうなくらいに潤んでいる。ぼくはその瞳に肯く。
「ああ。近頃のぼくは様子が変だと、まるで病気のようだって使用人たちも触れ回っているんだ。ぼくは何ともないのに。こうして元気でいるのにさ」
 だからぼくは抵抗してやった。父さんの手を撥ね、ソフィーさんに食器を投げ付け、めちゃくちゃに暴れてやった。お医者の所になんて行くものか。閉じ込められてたまるものか。ニネットと一緒に居たいんだ。ずっとずうっと。
「お兄ちゃんも寂しいのね」
 ニネットは言って、ぼくに手を伸ばしてきた。
 白く透き通るような細い手は、けれど、ぼくには触れない。透き通ったままですり抜けてしまう。
「わたしも寂しいの。お母さんはね、もうわたしの姿が見えないみたい。何年も前にお別れしてしまったから、わたしの事を忘れてしまったのかもしれない。わたしの姿が見えなくなってしまったみたいなの」
 白い肌、白いドレスのニネットは、ぼくの目の前で泣きそうな顔をしていた。けれどぼくには触れられない。頭を撫でてやる事も、頬を擦ってやる事も、抱き締めてやる事もできない。可哀想なニネット、愛しいぼくの妹。
「きっとお母さんはわたしの事も、わたしのお父さんの事も、あの事故の日の事も忘れてしまったのね」
 そうなのだろう。ソフィーさんはきっと忘れてしまったのだ。杖を必要とするほど脚を悪くしたあの日のできごとを。何年も前に起こった、悲惨な自動車事故の事を。ニネットとニネットの父親とを亡くした日の事を、もう忘れてしまったのだ。だからぼくにも話さなかった。ぼくはニネットに会い、話をするまでその事を何も知らなかった。
 ソフィーさんは全てを忘れて、ぼくの父さんと幸せに暮らしていくのだろう。杖を使い、足を引き摺りながらも、これからは幸せに暮らしていけるのだろう。その幸せの為にぼくは、ぼくの存在は、全く必要がないのだろう。
 昨日の事を思い出す。お医者に行く事を拒んだぼくが、食器を投げ付けた時のソフィーさんの顔。まるでおぞましい物でも見るようなあの眼差し――あの人は、とうとうぼくを嫌ってしまった。父さんも同じ目をしていた。ぼくを忌み、疎み、蔑むような目。その内にぼくをどこかへ連れ去り、閉じ込めてしまおうとするに違いなかった。邪魔者のぼくをどこかへと。
 けれど、ああ、ニネットは分かってくれる。ぼくの想いを知っている。ぼくを見る青い瞳はいつでも愛らしくそして無邪気だ。
「ニネット、きみにはぼくがいるよ」
 ぼくは、暗がりにぼんやりと浮かぶニネットへと語りかけた。
「ほんとう?」
 ニネットのあどけない表情が輝く。
「お兄ちゃん、わたしと一緒に居てくれるの?」
「ああ、居るよ。いつまでも一緒だ」
「もうすぐ夜が明けるのよ」
 青い瞳はすっと動いて窓を見る。窓の外、空はもう白み始めていた。紺碧の空に少しずつ少しずつ赤が混じり、やがて光が差してくる。ニネットがいつものように消えてしまう時間が、もうすぐやってくる。
 再びニネットがぼくを見た。
「それでも一緒に居てくれるの、お兄ちゃん?」
「ああ。きみに居なくなって欲しくない。きみに消えて欲しくない。だからきみの行く所へ、これからはぼくも一緒に行くよ」
 離れたくないんだ、愛しいニネット。日の差す間、ほんの短い間だけでも離れているのが辛いんだ。だからいつまでも一緒に居よう。いつまでも、ずっとずうっと一緒だ。きみの居る所へぼくも行く。ふたりだけの甘美な、秘密の時間を、これからはもう終わらせやしない。
「ほんとう?」
 繰り返し尋ねるニネットに、ぼくは優しく、できる限り優しく笑ってやった。
「ほんとうだ。きみと一緒に居るよ、ニネット」
 するとニネットは唇を綻ばせ、無邪気な声を立てた。
「じゃあ行きましょう、お兄ちゃん。ずっとふたりで居られる所へ」

 窓ガラスを通して、朝の光が差し込んでくる。眩しさに思わず目を閉じると、不意に眠気が押し寄せた。
 少し疲れた。椅子の背凭れに寄りかかった瞬間、頭が鉛のように重くなる。蝋燭の火を消す事も忘れて、ぼくは久方ぶりの眠りに落ちていく。
 何も心配はいらない。ぼくらはこれからずっと一緒だ。ニネット。愛しい妹のきみと、夜明けの空のその向こうまで一緒に。

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