しらないかお

「あれ、ゆーちゃんじゃない?」
 帰路を急ぐ俺に向かって、ふと声が掛けられた。
 夕闇迫る、駅前近くの繁華街。俺のアパートはここを抜けていくと近い。今日も勤務でくたくたに疲れていた。早足でいい匂いの漂う繁華街を歩いていたその時、声が掛かった。途端、居酒屋の前にたむろしていた集団が口々に呼びかけてきた。
「やっぱりゆーちゃんだ! もしかして今帰りなの?」
「おおー、懐かしい! 久し振り、元気そうじゃん」
「ゆーちゃん、全然変わってねーなあ! あの頃のまんまだ!」
 矢継ぎ早の挨拶に戸惑ったのは一瞬だけ。すぐに、その顔ぶれにも見当がついた。
「ああ、お前らか!」
 六年ほど前、高校で同じクラスだった面々だ。どの顔も当然成長し、見違えるほど大人びていたけど、それぞれに面影を残している。あの子は加藤、そっちは木村、向こうにいるのは波多野と谷田――クラスの陽気な問題児ばかり。俺は懐かしさに駆られつつ声を掛けた。
「こんなところで揃って、何をしてるんだ?」
「同窓会!」
「同窓会? へえ……」
「っつっても、声掛けられる奴だけ集めた、小規模なやつだけどね。結構よそへ行っちゃってる子とか、連絡つかない子も多くてさ」
 制服姿ばかりを眺めてきた連中も、すっかりスーツが似合うようになっていた。それでも口ぶりは相変わらずフランクだ。そういえばクラスの賑やかし屋ばかりが集まっているように見える。
「しかし、俺に声を掛けてくれないとはな。薄情じゃないか、お前ら」
 俺が冗談めかして告げれば、連中もげらげら笑う。
「ごめんごめん、ゆーちゃんが来てくれるとは思わなくってさ」
「誘ったら来てくれた? なら遠慮なく誘ってたのに」
 まあ、そう思われるのも無理はない。当時の俺は社交性と真面目さのバランスが取り切れなくて、連中のフランクさに腹を立てたこともしばしばあった。青かったといえばそれまでだが、あまり真面目ではなかった連中に対し、妥協する柔軟性にも欠けていた。名字が柚木だから『ゆーちゃん』なんて、気安いあだ名にすらむかむかしていた。だけど今はもう、笑って受け止めていられる。
「そうだ、何ならゆーちゃんもおいでよ!」
「え?」
 一人に腕をぐいと引かれて、俺は困惑した。
「遠慮しなくていいからな、緩い集まりだし、飛び込み参加も大歓迎!」
「せっかくこうして会えたんだし、一緒にお酒飲もうよー!」
「どうせまだ独身なんだろ? だったら付き合えよ、ゆーちゃん!」
 連中はあの頃と変わらない賑やかさで、たちまち俺を取り囲む。そこまで言われると誘いを断るのも気が引けた。明日は日曜、どうせ独身なので部屋に帰っても一人きり。となれば、気兼ねする必要もない。
「じゃあ、仲間に入れてもらおうかな」
 俺が言うと、すかさず連中は拍手喝采した。
「やったー! じゃあ今晩はゆーちゃんの奢りね!」
「お、おい、待てよ、割り勘だろ?」
「冗談だって。そんなに慌てなくてもいいよ」
 相変わらず気安い扱いでからかわれつつも、俺は昔とは違う居心地の良さを覚えていた。見慣れない、見覚えのある顔たち。制服を着ていない姿はまるで大人っぽくなっているのに、皆どこか懐かしい。記憶の中の面差しが容易く重なっていく。こんな形で再会出来るなんてうれしいこともあるもんだ。連中をぐるりと眺め回して、口元が緩むのを自覚した。

 ところが――ふと、一人の顔を見つけた時、俺は戸惑った。
 あれ、誰だろう、あの子。
 一人だけ、どうしても見覚えのない子がいる。
 先程から会話には加わらず、隅の方で控えめににこにこしている女の子。色が白くて、睫毛が長くて、柔らかそうな頬が印象的な子。黒髪を肩に滑らせるように下ろしている。おとなしそうだけど、とてもきれいな子だった。思わずしばらく見つめてしまった。
 釘付けになるほどきれいな子なのに、なぜか印象にない。面影が浮かんでこない。初対面だと言われても疑わないだろう、知らない顔、だった。
 記憶力には自信のある方だった。自慢じゃないが、クラスが替わっても一週間もあれば名前と顔を全て覚えてしまえるほどだ。なのに彼女の顔だけが知らない。
「あ」
 ずっと見つめていたせいで、目が合った。記憶にないその子が声を上げる。心臓が跳ねた。とっさに、声が出なかった。
 うろたえる俺とは対照的に、彼女のふるまいは落ち着いていた。はにかんで俺に会釈をした。そして、お久し振りです、と小声で言った。
 ということはやはり、あのクラスにいた誰かなんだろう。なのにどうして覚えてないのか。まさか『誰だっけ?』なんて至極失礼なことを尋ねられるはずもなく、俺も笑顔で会釈を返した。
「ああ、久し振り」
 罪悪感か、それとも別の理由からか、無性に心がざわめいた。
 ともあれ、思い出せないものはしょうがない。同窓会の席で会話を交わせば、そのうちひょいと思い当たるかもしれない。なるべくあの子の近くに座って、積極的に話そうと心に決めていた。話をして、どうしてもわからなかったら、その時は諦めて正直に尋ねよう。あのクラスにいた子がわからないなんて、そんなことは絶対にないはずだ。

 同窓会は繁華街の居酒屋で催された。
 制服姿くらいしか知らない連中と、居酒屋に入って一緒に酒を飲む。何だかとても不思議な感覚だった。こいつらを酒を酌み交わす日が来るなんて、あの教室にいた頃は想像もつかなかった。
 六年ぶりともなれば、さすがに連中も成長していた。就職した奴もいれば大学院に進んだ奴もいる。既に家庭を持っている奴もいれば、子どもまでもうけてる奴もいる。赤ん坊の写真を見せられた時はさすがに驚いた。六年の歳月はあまりにも無常に、様々な物事を変えてしまう。
 懐かしさのせいか、きれいな子の隣に座ったせいか、その晩はやけに酒が進んだ。仕事の後で疲れた身体は酔いが回るのも早かった。明日は日曜、休日だと気楽に構えていたせいもあるかもしれない。ある瞬間から、ふつりと意識が途切れてしまって――。

 目覚めると、隣に知らない顔があった。
 正しくは『知らないけど見覚えのある顔』、だ。
 睫毛が長く、柔らかそうな頬の女の子。黒い髪が流れる首筋が白い。そこまでは全て昨晩見かけたとおり。だけど、首から繋がる剥き出しの肩や、見覚えのある布団を掛けたすべすべの背中の白さには見覚えすらない。
 そこまで認識して、さっと血の気が引いた。
「うわ、な、ななな」
 俺は布団から飛び起き――かけて、彼女の背中までもが剥き出しになることに気付いて、慌てて止めた。俺も服を着てなかったのでちょうどよかった。いや、何言ってるんだ、ちっともよくない。
 どうなってるんだろう。辺りを見回せば、ここは俺の部屋だ。見慣れた柄のカーテン越し、既に日が昇っているのがわかる。俺の部屋なのに、知らない女の子が寝てるなんて。しかも同じ布団で。しかもお互い服を着ていない状態で。二日酔いの頭の重さも吹っ飛ぶくらいの衝撃だった。
「ん……」
 ふと、微かな声。見れば隣の彼女が瞼を震わせていた。すぐに瞳が開いて、俺を認めた途端に瞠られる。
「あ、お、おはようございます」
 ふわふわの頬が赤らんで、はにかみながらの朝の挨拶。しかしこっちは赤くなるどころじゃない、むしろ背筋がぞくぞくしていた。
「ええとその、君」
 再び布団に潜り込みながら、俺は彼女に何を尋ねようか考えた。どうして俺の部屋の、俺の布団の中にいるのか。どうして服を着てないのか。そもそも君は誰なのか。いや、まずは――昨日の夜、一体何があったのか。
「き、昨日は……」
 恐る恐る俺が口を開くと、彼女は頬を赤らめたままで目を伏せる。
「はい、あの……すみません、結局上がり込んでしまって」
「いや、それはいいんだけど」
 よくないけど、とにかく今はどうでもいい。問題はそこじゃない。結局、の経緯を知りたいんだ。
「あ、ええと、俺はその、君と?」
「え?」
「だから、その……昨日の夜は、何があったのかと」
 頭が鈍く痛んでいて、昨夜のことは上手く思い出せない。おぼろげな記憶を引き摺り出してみれば、そうだ。昨日は同窓会だった。
 と言っても本格的なものじゃなく、クラスの仲良しグループが企画した小さな集まり。そう聞いていた。俺は呼ばれていなかったけど、職場の帰りに偶然連中と行き合わせて、次の日は日曜だからとそのまま飲みに行くことにした。そこまでははっきりと覚えている。目の前にいる彼女の顔だけが、どうしても思い出せなかったこともだ。
 その後は、どうしたんだっけ。頭が痛んで思い出せない。今まで酔った勢いで女の子を連れ帰ったことなんてなかったのに、どうして昨夜に限ってこんなことになったんだろう。順序をすっ飛ばしたこの非常識な状況が、自分でも信じがたいほどだった。
 彼女は怪訝そうにしながら髪をかき上げる。その拍子、やはり剥き出しの胸元が覗きそうになったので、俺は慌てて布団を引っ張り上げた。
「覚えて、いらっしゃらないんですか」
 尋ねられて、申し訳ないと思いながらも正直に頷く。
「ご、ごめん。どうも飲み過ぎたらしくてちっともわからないんだ」
「そうですか……」
 悲しげにされてこっちの胸も痛んだ。手を出したことはほぼ確定的なので、これは責任問題だろう。だけどとりあえずは事実確認からだ。
「昨日は、同窓会だったんですよ」
 彼女は微苦笑で教えてくれた。
「それは覚えておいでですよね? 一緒に飲みに出掛けて、皆が帰ってしまった後で、最後に残ったのが私たちでした」
 何となく、覚えがあるような気がした。同窓会に出席した連中には、日曜が休みじゃない奴や既に家庭を持っていて日曜日を家族の為に使おうとする奴もいた。それで一人が帰り、二人が帰り、時が過ぎていくうちに残ったのが俺と――この子だった、ってことだろうか。
 ますますもってやばい。二人きりになって、それ以降の記憶が全くない。そして俺はいまだにこの子が誰だかわからない。会うのが六年ぶりとは言え、きれいな顔立ちの彼女について、記憶はまるで残っていなかった。本当にあのクラスの中にいた子、なのか。
「二人になってしまった時にはもう既に、とっても酔っ払っていらっしゃったから……私がタクシーを捕まえて、この部屋までお連れしたんです」
 そう言ってから彼女は、気まずそうに付け足した。
「でもその後のことは、お話しない方がいいみたいですね」
「そんな……ちゃんと責任は取るよ」
 良心の呵責に苛まれた俺を、けれど彼女はよくわかっているようだ。布団の中でかぶりを振った。
「いえ、いいんです。気に病まないでください」
「そういう訳にはいかない」
 酔った勢いでとは言え、何とも思わない子を連れ込んだりはしないはずだ。現に彼女は見とれてしまうほどきれいだった。
 昨晩、初めて釘付けになった瞬間は覚えている。目が合って、心臓がどきりと跳ねたことも覚えている。きっと昨夜の俺はそんな彼女に強く惹き付けられて、こんなことになってしまったんだろう。それならせめて、名前くらいは聞いて、覚えていればいいのに。
 でも俺は、更にもう一つ、彼女を悲しませてしまいそうな質問をしなくてはならない。
「ところで、君は」
 布団の中で、お互い服も着ずに並んで寝ていて、こんなことを尋ねるのも妙だ。だけどどうしても知りたかった。
「君は……誰? あのクラスにいた子、なんだよな?」
 すると彼女は少し懐かしむような面持ちになった。
「昨夜もそう、尋ねられました」
「え?」
「私、萩野です。萩野紗代です」
 名前を告げられた途端、脳裏にはあの頃の光景が広がった。
 教室の片隅でいつもひっそりしていた、色白の女の子。制服はきちんと着こなされていて、いつも行儀よくしていた。クラスの中にいた萩野さんは地味でおとなしく、ごく目立たない女の子だった。人当たりがいいせいか友達が多くて、だけどいつもひっそりと片隅の方にいた、彼女。
 あの頃からきれいではあったけど、あくまでも少女らしい美しさだった。会わない五、六年の間にすっかり大人になって、目の覚めるような美人へと変わってしまったんだ。最早あの頃の面影はほとんどない。
「萩野さん、随分きれいになったんだな」
 場違いだと思いながらも感嘆の声を漏らすと、彼女はもう一度はにかんだ。
「昨夜もそう言っていただきました。見違えたようで、わからなかったって」
「……そうか」
 俺はどこまで酷い奴なんだ。そんなことも覚えてないなんて。
「私、うれしかったんです。再会する時までにきれいになっておこうって思って。だから昨日、そう言っていただけて、これでおしまいになっても構わないくらい幸せで……」
 伏せられた睫毛から涙が滲んで、柔らかな頬を伝っていく。同じく柔らかく、優しい温度の唇が、震えながら言葉を続けた。
「あの頃からずっと、好きだったんです。柚木先生のことが」

 かつての教え子に手を出した罪は、やはり重いだろうか。だけどこれでおしまいにだなんてしたくはなかった。
 彼女に恋をした瞬間だけは思い出せる。もちろんこんなやり方、許されるものではないだろうけど。

「責任、取らせて貰えないかな」
 俺はそっと告げると、彼女の滑らかな髪に触れた。昨夜も触れたに違いない場所。覚えていないことが悔しく、だけど初めて触れた喜びに胸が躍った。俺は確かに、彼女に恋をしているらしい。
「先生……」
 彼女がじっと俺を見つめる。瞳の色が揺れている。かつて少女だった頃の面影はない、大人の面差し。
 その瞳を見つめ返して、言葉を重ねていく。
「昨日のことは思い出すようにする。こう見えても記憶力はいい方なんだ。今となっちゃ、説得力はないだろうけど」
 彼女に信じてもらえるように。彼女に、もう一度恋をすること、許してもらえるように。
「もしも、どうしても思い出せなかったら、その時はちゃんとやり直すよ」
 思い出せてもやり直したい気分だったけど、俺は言った。
「今度は必ず、何もかも忘れないようにするから」
「大丈夫です、先生。私、信じてます」
 萩野さんはすぐに、そう言ってくれた。
「だって先生は、クラス全員の名前をすぐに覚えてくださいましたよね?」
「え? 知ってたのか」
 そんなこと、生徒たちが気にしているとは思わなかった。覚えていて礼なんて言われたこともなかったし、俺も教師としては当たり前のことだと思っていた。
 彼女の囁くような声が続く。
「だって私、目立たない子でしたから、先生方にもあまり覚えていてもらえなくて……柚木先生だけでした、私のこと、四月のうちに覚えてくださったのは」
 また涙が、彼女の頬を伝った。それでも唇は微かに笑んでいた。
「その時、すごくうれしかったんです」
 うれしかった、と言ってくれた彼女の心に、報いたいと思う。
 教師としては失格だろう。相当、罪深いだろう。でも、男としてはそうありたくない。挽回の機会が欲しい。彼女の心に報い、自分の心に正直であるように。
「ありがとう」
 俺は正直に感謝を述べた。彼女が頷いた時、急にいとおしさが込み上げてきて、布団の中で彼女を抱き寄せ――かけて、服を着ていないことを思い出して、慌てて止める。
 危なかった。今度は順序を間違えちゃいけない。
「と、とりあえずさ、萩野さん」
 途端に声が上擦った。
「服を着てから話し合おう。ほら、お腹も空いたし」
 今日は日曜日だ。積もる思い出話と、これからのことを話し合う時間はたっぷりある。服を着て、食事を取ったら、ちゃんと順序正しい恋をしよう。
 もう知らない顔じゃない彼女が、ようやくおかしそうに笑った。
「そうですね、先生」

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