Tiny garden

マリエの探偵物語:カレル編

 考えてもわからぬことを、延々と考えても仕方ない。
 マリエは当のカレルに疑問をぶつけてみることにした。

「殿下、お伺いしたいことがございます」
 その夜、マリエはミランを先に下がらせた後、二人きりの部屋でカレルに尋ねた。
 カレルもその質問が来るのは覚悟していたようだ。椅子の上で足を組み変えた後、溜息まじりに応じた。
「昨夜のことだな」
「はい」
 やはり、感づいていたようだ。
 マリエは今日一日、昨夜の出来事にすっかり心を囚われていた。これを解き明かさぬことにはどうにも納得できないと思っていた。
「不躾な詮索であることは承知の上でございます」
 そう前置きしたマリエに、カレルはゆっくりとかぶりを振る。
「私はそうは思わぬ。何でも聞くがよい」
「寛大なお言葉に感謝いたします、殿下」
 ひざまずくマリエは頭を下げた後、切り出した。
「昨夜、殿下は何をなさっていたのですか」
 それから面を上げて、椅子に座る姿を見上げる。
 白金色の髪の王子殿下は、その端整な顔をわずかに緊張させながら口を開いた。
「酒を飲んでいた」
「え……殿下が、でございますか?」
「ああ。おかしいか?」
 おかしいかと尋ねられ、マリエは即答できなかった。
 率直に言えば、信じがたい気持ちだった。

 近侍として知る限り、カレルに飲酒の習慣はない。
 飲めないというわけではなく、宴の席であれば食前酒を一、二杯嗜むことはこれまでにもあった。だが普段の食事で所望したことはないし、マリエに用意させたこともない。
 だからマリエも、主が酒を好む人間であるとは考えもしなかった。

「たまに、飲むことがある。少しだけだが」
 カレルはマリエの視線を気にしてか、言いにくそうに続けた。
「お前がよく思わぬだろうと、こっそり飲んでいた」
 その懸念は当たっていた。マリエからすれば、密かな飲酒と聞いただけでよくない方向に考えてしまう。
「殿下、何かお辛いこと、悩まれていることがおありなのですか」
 マリエがこわごわ尋ねると、カレルは予期していたかのように苦笑する。
「そうではない。いつも楽しく飲んでいたし、酒量も守っていた」
「それならいいのですが……」
「ああ。だが昨夜は飲みすぎていたかもしれぬ。カエデ蜜のワインが美味くてな」
 どうやらカレルは酒の味にもだいぶ詳しくなっているらしい。マリエの知らぬところで一体どれほど杯を重ねてきたのだろう。昨夜が初めてではないという時点で、マリエにとっては驚きしかなかった。
「そうしたらお前が戻ってきたから、慌ててしまった」
「そ、その件は申し訳ございませんでした」
 マリエが気まぐれを起こさなければ、主の密やかな楽しみは今も密やかなままであったかもしれない。
 だが昨夜の一騒動を経て、全ては詳らかにされてしまった。
「転んだというのも嘘ではない。正確に言うなら、立ち上がろうとして椅子や酒瓶をひっくり返したというところだが」
 カレルは穏やかに続ける。
「酒瓶から酒を零したのでクロスで拭いた。匂いでお前に知れるのを恐れて窓を開けた。椅子を直す余裕はなかった――これが昨夜の一件の真相だ」
 マリエが疑問に思ったことが次々と明らかになっていく。
 思えば昨夜、カレルは酒に酔ったようなそぶりもあった。青い瞳はとろんとしていたし、体温も高く、頬も赤かった。暑がっていたのも嘘ではなかったのだろう。
 だが一つだけ、納得のいかぬままのことがある。
 翌日になってこんなにも素直に語るのなら、昨夜はなぜ隠匿を図ろうとしたのだろう。
「どうして、全てをわたくしに話してくださったのですか」
 マリエは主を見上げて尋ねた。
 するとカレルは椅子を立ち、マリエの前に膝をつく。そしてマリエの頬に手のひらで触れながら言った。
「一つは、お前に嘘をつくのが心苦しかったからだ」
 大きな手で頬を撫でられるのが、くすぐったようで温かく、幸せだった。昨夜とは違う、程よい体温が心地よい。
「もう一つは……」
 カレルはそこで一度言いよどんだ後、囁くように声を落とす。
「マリエ。この件の責任は私にある。他の誰も責めないでやって欲しいのだが」
「どなたも責めるつもりはございません。どうぞ仰ってくださいませ」
「……昨夜は、アロイスが一緒だった。一緒に酒を飲んでいた」
 この告白は、飲酒の事実以上にマリエを驚かせた。
 確かに椅子が二脚倒れてはいたが、まさか――。
「アロイス様は、どこにいたのですか」
 動揺するマリエが聞き返すと、カレルは少しだけ笑って答える。
「奥の寝室だ。とっさの判断で、彼奴をあそこに隠した」
 覚えがある。
 昨夜、寝室に通じる扉が揺れていた。窓から吹き込む風のせいかと思っていたが、それだけで開いてしまうほど脆い扉でもないはずだった。
 ではマリエが室内へ立ち入った時、隣室にはアロイスがずっと隠れていたということになる。カレルはアロイスを庇う為に事態の隠匿を図り、そしてマリエをやんわり追い返したのだろう。なぜアロイスを庇う必要があったか、それは――カレルを酒に誘ったのがアロイスだったから、なのかもしれない。
 思い出すのは遠い昔の懐かしい記憶だ。城に現れる幽霊についてカレルに話し、木剣を持たせたのは他でもないアロイスだった。あれから十年以上の間、カレルが何か新しいことを始めた時、その陰にはいつもアロイスの存在があった。飲酒についても、恐らくはそうなのだろうと思えた。
 だからといってマリエに、アロイスも、無論カレルのことも責めるつもりはない。酒を飲むことの是非に思うところはあるが、アロイスも、そしてカレルももはや大人だ。マリエが口を差し挟むことではないだろう。
 昨夜のやり取りが隣室に筒抜けだったのかと思うと、さすがに気恥ずかしかったが。
「だから、お前を追い返さざるを得なかった」
 カレルはマリエの胸中を読んだかのように、静かに続けた。
「本当は帰したくなかった。お前がせっかく訪ねてきてくれたというのに、戻れと言わなくてはならないのは辛かった。お前が私を求めてくれる機会など、滅多にあるものではないのに」
 頬を撫でていた手が耳にも触れる。
 マリエが身を竦めると、カレルはいとおしげに目を細めた。
「おまけに昨夜は酔っていたからな。危うくアロイスがいることも忘れ、理性が飛ぶところだった」
 手が再び頬に下りてきて、それから首筋に触れる。
 昨夜口づけられた箇所は、傷の手当てをする時に使う小さな綿紗で覆われていた。はっきり痕が残ってしまって、隠しておかなくてはならなかったのだ。
「ここか。外してもよいか」
 尋ねられ、マリエは迷った末に頷いた。
 すぐにカレルの手によって綿紗は取り払われ、痕がついているはずの箇所をくすぐるように撫でられる。
「昨夜の私は、よくこれだけで堪えたものだ……」
「殿下の賢明さに感謝申し上げます」
 マリエは率直に述べた後、ぎこちなく微笑んだ。
「そしてお気持ち嬉しく存じます。お約束もしていなかったのに、突然訪ねたわたくしに温かく接してくださって――」
 その言葉を遮るように、カレルはマリエに――今夜はきちんと唇に、短く口づけた。
 それから、マリエの顔を覗き込み、優しく言い聞かせてくれた。
「私の扉はいつも、お前の為に開けてある」
 青い瞳がマリエを見つめている。
 昨夜と違い、酒は飲んでいないはずなのに、陶酔したようにとろりとしている。
 この眼差しはもしかすると、酔いのせいではなかったのかもしれない。
「お前が望むならいつでも私の傍に来い」
 カレルはそう言った後、決意の面持ちで言い添えた。
「もう二度とお前を追い返しはしない」
「殿下……」
「昨夜のようにかち合うと困る。何ならお前とも符号を決めておこうか」
「符号、とは何のことでございましょうか」
 マリエが聞き返すと、カレルは得意げに笑みを深める。
「お前が私を訪ねてくる日にはわかりやすく合図をせよ、ということだ。それならばアロイスともかち合わず、私も大いに期待をしながら夜を待つことができる」
「そ、それはその、いささか恥ずかしいような……」
「アロイスに見られているよりは余程ましであろう」
「……まさか昨夜、見られていたのですか!?」
 大声を上げかけたマリエの唇を塞いだ後、カレルはおかしそうに喉を鳴らしてみせた。
 唇をわずかにだけ離して、吐息のかかる距離で囁いた。
「安心せよ、今宵は本当に二人しかおらぬ」
 明日でもよいと言ったカレルの言葉は、このまま実現されることになるようだった。
 
 その後カレルとマリエの間に、どのような符号が設けられたかは定かではない。
 だがアロイスと鉢合わせることはその後一度もなく――要は全てが上手くいっているのだろう。
 より確実に幸福を味わう術を、この夜、二人は得たのかもしれなかった。
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